鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.10.18  平和の中の戦争意識 
 

 お祝いのまんじゅうがどうして、紅白なのかというと、紅白というのが、もともとおめでたい色であるという意識がこの文化圏にあるからですね。

 時計を換えました。13年ほど使ってましたから、竜頭が腐食して、時刻合わせができませんでした。電池切れ共に、修理すべきか迷いましたが、3週間近くも使わないというのは、不便きわまりないので、結局購入することに。出費でしたが、毎日使うものなら、しっかりしたもので、根が張ってもいいと思ってます。
 例えばテレビですが、毎日見るのなら、鮮明なほどいいですし、画面も大きい方がいいですね。それゆえ、値段が高くても、いいもの、つまり自分の気に入ったものを買うことにしています。もっとも、プラズマなどの高額で高画質なものもありますが、物理的に置くことはできないので、考えません。
 時計は毎日身につけるものですから、飽きの来ないものを選びます。シンプルで、薄くて、軽くてというものですね。なかなかこういうのはなくて、最近のはどうしても重厚になってしまって、いいものが少なくなっている気がします。

 液晶ディスプレイに保護シートをつけてましたが、これが時折液晶面から浮いてしまい、文字がぼけてしまうことが判明。それで、時折、画面に近づけるようにしていたのですが、それも面倒になって、ついにはずしてしまいました。保護するためのものなのですが、現在の場所では、まず液晶画面を傷つけることないので、それまでの手間を考えて、ついにはずすことに。最良の方法の保護が、実は、邪魔になるという事実ですね。

 パソコンの再インスト、ようやく終了しました。CD-ROMにして160枚分、データ量にして60Gです。これなら、HDDに入れた方が速いですね。全てのCDを。音楽CDの方がはるかに多いですが。

 切なさとか、いとおしさとか、温かな心とか、表現を考えてます。

 右腕のしびれですが、人差し指の側面と中指の側面にしびれがあります。以前、けがをした右手の甲のところを中心として、しびれがあります。それが肘から肩にかけてつながってきました。腕は上がりますから、40肩ではないようです。ただ、前後に腕を動かすと、筋肉痛がありますね。それと、手の甲にしびれとひきつるかんじがありますから、キーボードで、右手小指の「へ」や「¥」を打つと、ジンと響きます。これも我慢して、使うことでリハビリ予定です。
 ふらふら感は起立性障害なのでしょう。これはかなり改善して、たち歩いてふらふらしなくなりましたね。血圧は正常、健康診断では健康そのものです。寝不足が原因かもしれませんが、日中はそんなに眠くなりませんから、問題は意識なのでしょうね。

 AdobeからAfterEffectの6.0が出ました。いずれ、使ってみたいソフトです。

 やる気を起こすにはどうするか、永遠の課題のようです。最後は自分の力なのですが、他人がアドバイスできる方法はないかと。たぶん、方法でなくて、気持ちなんでしょうね。信頼と期待と。

 オンラインとオフラインと分けている場合、オンのがオフに入り込むと、違和感があります。それは、オンラインはオンライン特有の文化を持っているからだと思います。オフミで話しても、知っているHNの人が話していると、文字だけの文化と違うと、思ったとがあります。それはもう10年前にオフミにて思いました。
 携帯のメールもパソコンメールとは異なる、文字制限、iMODEなら250字の文化です。250字で全てを言い切る、その文化的な価値はというのは、送信するデータの少なさから来ますが、実は画面に影響していると思っています。
 ブラウザの画面の大きさと情報量は比例するのではないでしょうか。つまり、画面でスクロールなしが見やすいと思ってしまいますね。それは、額縁としての枠を期待しているからだと思います。

 浜本先生の研究発表を聞きました。学力についての再整理です。沖縄には行けなかったので、五十嵐力についてはいずれ聞くことにいたします。1ヶ月半ほどしての再開ですが、お元気そうで何よりです。大平先生とは話ができませんでしたが、いずれまた、まとめて意見交換の予定です。
 忙しい最中に行ったので、懇親会は参加できず、仕事場に戻りました。まだまだたまっている仕事は終わりそうにもありません。たぶん、いつでもたまり続けていくのでしょう。そうなると、一度全て壊したくなりますが、それもまだできない状態です。

 残された時間は刻々と少なくって行きます。

 最近考えていたことですが、平和を唱える事についてです。その事自体は当然であり、私も平和を望んでいます。戦争を憎む気持ちは当然もっています。そして、戦争を繰り返さない気持ちもあります。
 ところがそれが本当かとうことなのです。戦争を反対することだけを考えていればいいのでしょうか。戦争はないほうがいいに決まっています。戦争によって利益を得る人々だけが反対しながらも、受け入れているのです。
 ここで考えておきたいのは、戦争をする側の意識はどうであるかです。戦争を反対する気持ちをもって、議論をしても、戦争を肯定する人々の意識まではわかりません。だからこそ、戦争をしてしまう人の意識は何かをさぐる必要があるのです。
 なぜそう考えるというかと、平和を唱える人の意識には、戦争を受け入れる意識があるのではないとかということです。
 こんなことを言うと、戦時下のまがった教育を再考しているように思えるかもしれませんが、そうではなくて、すでに私たちの心の中に戦争を受け入れてしまうだけの心をもってしまっていることです。それに気づかないのは一方的、視野が狭すぎます。なぜ人は戦いをやめないのか。その根本を考えていくと、私たちの心の中にも共通する意識があるのです。
 例えば、体育祭での、棒倒しです。敵陣にある棒を倒して、戦いを終わりにします。騎馬戦もそうですね。騎馬が相手の騎馬の帽子を取る、あるいは騎馬同士の戦いとなり、相手を倒す。これらの競技種目はすでに、戦い、勝利することを目的としています。そしてそれを喜んで応援する場合を見かけます。
 競技種目が終われば、もとの仲間たちとなるのですが、その競技中はすでに勝つこと、戦うことを目的とし、敵陣に入り的を落とすことに第一目的として、運動ということ、体育ということはすでに忘れ去れています。体育とは戦いなのでしょうか。運動とは、勝ち負けなのでしょうか。競技とはあかじめそういう戦いの意味を持ちますが、それは能力の戦い、たとえば、100mなどの能力の挑戦であることなら、まだしも、敵をまかす、倒すことの競技種目が、プロレスやボクシング、柔道、剣道のように行われるのは、絶対的な数値ではなく、相対的な相手との戦いの結果となっています。
 この戦いには、戦争の戦いの意識とつながるものがあります。平和を思考しながら、しかし、競技に現れる自己の戦いの精神については触れない、それはどこか矛盾しています。人の中にある戦いの意識それをさぐることなしでは、戦争の意識を認識することはできませんし、その中にある平和思考という自分自身の矛盾について、整理できていないことになります。
 あるいは、戦うことがいつの間にか、当然のように洗脳のように植え付けられてしまい、そのままそれが楽しい娯楽として受け取られているのです。それは、騎馬戦や棒倒しでは実際に人が死ぬことはないからです。あくまでも、人身生命を奪うことなしに競技が行われるからです。人身生命が目的でないにしろ、戦争原理がすでに植え付けられ、あるいは自然発生的に身に付いてしまった以上、戦争という原理は確実に平和を思考する人の中にあるのです。それをぬぐい去ることなしに、戦争から平和へという思考をすることは、形式としての戦争はなくなっても、人々の心の中にある戦争意識は消えません。消えないからこそ、戦争はこの世界からなくならないのです。
 平和への戦いとは、戦争をなくすことではなくて、自分の心にある、戦争意識と対峙して、自分の中にある平和意識との共存を目指すとになるのではないでしょうか。つまり、戦争から平和へという思考には、異文化や異次元に対する、この場合は敵として認定した自分の意識ですが、この意識との対決にほかなりませんし、自分の心にある戦争意識との対決なのです。だから、表面上の平和ということは、あくまでも、無戦争状態ではなくて、人身生命を奪うことをのぞく意識だけなのかもしれません。
 果たして、人の心から戦争意識をなくすことはできるのでしょうか。それは自分自身をも混乱させ、あるいは、整理不可能なまでに混乱させてしまうかもしれませんが、娯楽としての戦争意識と、人の命を奪うことの戦争意識と、整理できる理性が求められてるのです。戦うことの感情を乗り越えた。

 昨日は、このことを書こうとしていて、中途半端になってしまいましたので、書くのをやめてしまいました。まだ書きたいことのわずかなのですが、その一端を書き記すことにします。
 別に競技種目での棒倒しとか騎馬戦を反対しているのではなくて、人の心にある意識について分析したまでです。種目が主眼ではないのです。意識が主眼なのです。

 4:00就寝、7:00起床、3:00睡眠。


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