鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.10.19  期待 
 

期待

 物語やテレビ、音楽を聴いて、いいなぁと思う反面、いままでと違うという違和感を感じることがあります。その違和感とは、自分の感性と異なるのでなくて、自分の感性と同じものを求めているから感じるのです。すべてを受け入れる状態なら、違和感を感じません。違和感を感じるのは、完成との対比ですが、それは、すべての状態を受け入れるのではなくて、自分の感性にあるのだけを受け入れようとするから、違和感を感じることになります。
 そこには期待があります。期待は、先入観です。ほとんどのものには先入観によって概念規定しています。よっと、この期待が決めているということもできます。期待とはすでにそのことが起こる前にありますから、期待することは、見たり聞いたりすることの前に作られている、つまり、すでに何かを求めていることになります。楽しさや美しさかもしれませんし、感動かもしれません。
 人間関係も同じです。人間関係がうまくいかないのも、相手が自分の思い通りにならないことがります。自分の思い通りになれば、それは、いい人間関係ですが、思う通りに成らない場合は、それはストレスとなります。特に行動として行われることよりも、期待することは、理解があります。
 理解されることは人間関係のキーワードです。理解されたいということは、実際に理解されることではなくて、理解してくれているという感覚を受ければそれで十分に期待に応えたことになります。
 中には愚痴もあります。親子の関係で子どもは伝えたいというよりも、聞いて欲しいとい目的を持ちます。簡単に言って愚痴なのですが、愚痴とは行った瞬間に目的は達成されます。それは、共感も何も必要があるのでなくて、聞いていくれればいいのです。愚痴とはそういうレベルのものです。しかし、愚痴を聞きながら、それは大変だとどこかに訴えたり、要求したりすると、子どもは目的である聞いてくれる以上のことをしてしまい、それが、かえって、子どもと親の関係を崩してしまいます。愚痴を聞いてくれるという安心感、つまり期待があるからこそ、愚痴を言えるのであって、それを第三者に訴えたり苦情を言うと、親子のみにある愚痴を共有する関係が崩れてしまいます。それゆえ、次回より愚痴を言うことをためらうことになります。それは、関係を崩すことになります。
 ここでは、子どもは愚痴を聞いてくれるという期待を持っています。その期待に応えることが関係です。期待とは、そのような要求であり、すでに自分の中にあるものであるから、例えば、音楽を聴いて、純粋に無心に聞いていくことは少ないことになります。もちろん、純粋に無心に聞くことはあります。しかし、あるバンドや歌手などのアルバムなどを次々に聞くときは、最初に先入観ができてしまい、その後のアルバムについて違和感を感じてしまうことがあります。演奏家も意識が変化しますから、変化を無心で受け止められることもありますが、多くは先入観、今までの音楽を継承していると思います。それが期待です。
 この期待、実は、距離に比例します。その距離については、そのうち。

 人間関係もそうですね。うれしかったり、かなしかったり、切ない思い、それらは自分の中にある期待通りにならないから起こります。それらは思いですが、その思いがあるから人間らしいのでしょう。切ない気持ち、いとおしい気持ち、それらの期待があるからこそ、人は人として生きていくことを生き甲斐としていくことができるのでしょう。もちろん、そんことはまだわかりませんが。
 そんなときに、期待した自分は何を求めているかを考えると、自分の期待に応えられる方法が見つかるかもしれません。

 四十肩が進行しています。手は上がりますが、しびれと、腕の鈍痛はますばかりです。

 6:00就寝、6:15起床、0:15睡眠。ほとんど徹夜でした。徹夜した後はなぜか働きすぎますね。


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