鴛鴦呼蝉庵日乗
2005.12.05  自由の恐怖

 自由に書きなさい、自由に考えなさいと言われと、何をしていいのかわからないときがあります。それは、自由というと、その自由の範囲や方向性があると思うからでしょう。自由ということは自由なのですが、「自由に考えなさい」ということは、自由に考えるという方向性に乗らないといけないので、その自由という範囲を考えてしまいます。出題者の意図を探ることがこの場合も適用してしまうので、どうしたらいいのかということを考えてしまうのでしょう。
  ただ、束縛があるからこそ、自由を求めるわけで、そして自由になったらと考えると、どうしていいかわからないということはよく聞きます。つまり、自由というのは相対的な位置であって、自由であることではないのでしょう。束縛があるから自由という概念が生じるわけで、自由というのは状態というよりも、比較して行われる概念であるかもしれません。
  なってしまうとそれは実はたいしたことではないのかもしれません。その点では幸福に似ています。
  自由とは時に恐怖なのでしょう。

 できないことを嘘をつくという症例を目撃して、その実態は単に甘え、つまり寂しさであること、本人は知らないでいるのですが、端から見ると明らかなので、それもまた、その人の悲しさでもあかると思いますが、でも、それが度を超すと、迷惑そのものだとも言われます。なかなか難しいところです。

 演劇でも電車でも学校でもどこでもおしゃべりというのはあるもので、そのおしゃべりとは周りが自分をどのように感じているか想像力がないからでしょう。自分中心といしうよりも、話すことで自分の存在意義を確かめようとしていることがあって、そのためにしゃべる。いわば、話す内容はすでにどうでもいい些末なことなのですが、自分には話す相手が存在しているということ、つまり孤独ではないということを証明するために、おしゃべりがあるとも言えます。その意味では、他人依存ではなくて、自己存在証明への葛藤であるとも言えます。そういう場合は避けるべき人物ではなくて、ただそういうでき事でであるということかもしれません。もっとも、これをLDという人もいるそうですが、果たしてそのように考えることが当たっているかどうか。
  適度な会話を楽しむのに定義はいりませんから、その意味を問うことは、おしゃべりをする人を分析するというよりも、おしゃべりをするという人を自分とは別次元であるという考えに至りやすいので、自分の中に一般論にどこまで近づけられるかでしょう。なかなか難しいところです。
  簡単に言えば、いいかげんに迷惑なのがかわんねぇのかよ、てめえ、ということなのでしょう。それも至極当然の結果です。

 思いをつらつら書いていくうちに、どんどんと展開していくのですが、それがそのままわからない方向に行くことがあります。いくつかの場合、だんだんと狭い考えに陥ってしまい、その考えから展開していくこと、想像して行くこと、連想することがなかなかできない場合です。連想ということは、妄想とは別で、根拠ある連想と、根拠のない連想の違いであるから、その場合は、どのように変化するか。それが実は楽しみなのですが、その変化があるかないかは自分で気がつきにくいので、誰かとの比較において、考察して判明します。そんなものです。

 年末になるにつれて、机の上が乱雑に。ふたたび整理をしないと。書類はすぐにたまります。

[今日の記録]
睡眠時間:4:00就寝、6:50起床、2:50時間。
最高気温:12度

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