鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.10.22  音 
 

 ここのところ、パソコンに向かって寝てしまうことが多く、それも眠いという感覚がなく、突然寝てしまうので、はっとすると、15分ぐらいたってしまうことが多いですね。パソコンのファンなどの音がいつも耳障りなので、ヘッドホンをして、音を遮るのですが、今までノイズレスのを使用していていたのですが、パソコン本体が近くにあるので、あまり聞かなくなりました。それで、どうすればいいのかということを試して、密閉型、オープンエア、ノイズレス、イヤホンと試したところ、効き目があるのが、イヤホン、密閉型、ノイズレス、オープンエアという順番になりしまた。しかし、どれでも、ノイズは耳に達するので、パソコンの位置を変更することを検討中。
 イヤホンがよく聞くのは、耳を覆うからでしょうね。しかし、耳が痛くなるのが困りものです。それで、ノイズレスのイヤホンにすると、これがよく聞くのですが、しかし、音に敏感で、コードが机のどこかに触れるだけで響いてしまいます。音もあまりよくないですね。
 ウォークマンとかに付属しているイヤホンがありますが、これがあまり音質よくないのです。それで、購入するとすぐに音質のいいものを買うのですが、耳のところが小さいイヤホンだとそれほど高品質のがないのが残念です。耳を覆うようなオープンエア的なイヤホンがあり、いまそれが流行ですが、それだと、周りのノイズが入ってしまいますね。その方が耳にはいいのですが、イヤホン、ここで言うのは、耳の穴に入れるものを言いますが、このイヤホンの方が音が直接内耳に届き、迫力があります。
 以前にも書きましたが、ラジオ、特にFM放送だと、かなりの低音が響いて、音がきれいに聞こえますね。それに比べて、MDやCDプレーヤーだと高品質でないと、あの重低音、透明感は出ません。BOSEの小型CDプレーヤーかいいのですが、20万近くになりますので、手が出ません。
 いい音やいい映像を求めてやまないのですが、なかなか出会えないので、スーパーオーディオや1bitオーディオなどの技術は魅力あります。スーパーオーディオCDは音質はいいとしても、プレーヤーが少ないのが難点ですね。パソコンでの再生できるソフト少ないですし。DVDオーディオも、魅力ありながら、それに録音の段階で音質が劣化します。

 映像もそうで、DVDの画質は720ピクセルというのが、どうも不思議でなりません。パソコンがすでに1024以上の画質ですから、それに見合う画質でないとと思いますね。ハイビジョン用のDVDは魅力ですが、せめて、2048サイズでないと、パソコンでの再生が汚くなります。高画質、高音質を求めると、ライブが一番いいと考えられがちですが、ライブはかなりのノイズが入ります。再生の音質は、再生であるからこそ、高音質、高画質を求めていくのです。自分の部屋や移動先、そういう場所でこそ、いい音、いい映像を求めていくので、まずは技術的な機器の部分。そして、その後は、ソフトですね。いくら機器がよくても、それに見合う内容が、コンテンツがないと、意味がありません。いい映像、いい音質、それらを求めてやまないのは人間としての、表現者から理解者としての共存を求める意識ではないかと思います。

 表現に終わりはありませんし、完成はないと思います。よい表現を求めても、満足は行かない、だから表現し続けていくのだと思いますね。サイトもいいデザインを求めたくなります。以前も書きましたが、「虎屋」のサイトは比較的きれいだと思います。きれいなサイトは、余白の使い方がいいですね。それと、色をあまり多く使わずそれぞれの色が引き立つように工夫されている。余白の美があります。あまりごちゃごちゃと情報を入れるよりも、余白を十分にして、引き立つようにする。文字や余白がお互いを引き立つような表現があればいいと思います。「字野」という表現があります。字とその周りとのバランスですね。書道で、点を打つときには、元の字からできるだけ離します。そして、それ以上離すと、アンバランスになるぐらいまでぎりぎり離すことで、緊張感が生まれ、それが美しさになとる思っています。

 再現のない要求、それが表現のもつ本質です。表現していくことで、自分が何を求めているのかがわかるからです。表現とは自分を映す鏡であり、自分とは何か、そして自分の個性とは何かをつきつめていって、そしてなおかつ、終わりのない行為であるからこそ、楽しいのではないでしょうか。

 本当に美しい表現、細かいことなら、映像、音楽、文章、そういうものを融合していくことに、サイトはいい媒体ですね。文字や静止画のみならず、動画や音楽もどんくどん表現していければと思います。
 もちろん、そんな時間はありませんから、難しいですが、一生表現し続けていければと思いますね。内容や好みは当然変わりますから、サイトのみならず、いろいろな媒体を使い、発信して、そして自分に戻るのです。
 しかし、その反面、表現とは自分の中身がすべてさらされてしまいますから、自分能力の限界を感じてしまうことにもなります。限界を感じていくことは悲しいことですが、それを乗り越えられるか、それは他人からの反応ですね。特に信じている人からの反応、理解されているという人からの反応により、うれしくもあり、そして、そこから可能性も見いだせるのではないでしょうか。見続け行くこと、見守ること、長い時間をかけていくことでしょうね。

 いつも同じことを書いてますが、人間の考えることを365日すべて変えるのは難しく、ほとんど同じことを考えているようです。毎日新しい発見なんてありませんし、新しい出会いもあれば、別れもありますが、それでも、自分は大きな変化はないようです。そんなものですね。
 高校時代に培われた感性はそのまま一生続いているようです。

 ここ数日、仕事のことなどで憤ることが多く、ストレスを感じてます。細かい管理的なことの中心は、人の心に触れることを真ちがえてしまうことなのですが、それを忘れて走ってしまう体制に対して、どうやって、くさびをうつか。しなければ、何もないのですが、しかし、自分の存在場所を残すためのスペース作りには必要なのです。
 それがいろいろな迷いにつながりますね。このままでいいのか。ここでいいのか。この道でいいのか。まだまだ先はわかりませんし、先へ行くための準備は十分にできていないのです。いずれ決めるときがくるでしょう。数年内には。

 清水の舞台から飛び降りる気持ちでということですが、本当に清水の舞台から飛び降りたら死ぬかという問題。下は斜面ですから、けがで終わるか。去年行ったにもかかわらず、あまり検証してきませんでした。そんなこと検証しても対してことないのですけどね。
 京都の話を先週していたので、京都の森嘉の豆腐が食べたなくなりました。やっぱりあれはおいしい。松岳院がなくなってから、おいしい豆腐屋さんはなくなりましたね。一つありますが、まあそれはそれで。

  22:00就寝、0:00起床、5:00就寝、7:00起床、4:00睡眠。


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