鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.05.26  久しぶりにたっぷりと

 警告、今日は長いから、受験生や仕事が溜まっている方は全部読むと、試験勉強や仕事ができなくなりますよ(笑)。

 地震がありました。すぐに携帯電話の通話状態を確認。つながらず。ネットも確認。気象協会もつながらず。しばらくして開通。もしもの時には役に立ちませんね、携帯。安否が気になります。岩手は藤井先生だったはず。大丈夫でしょうか。

 詩を扱う、あるいは読みとるときに、自分の意見をまとめようとすると、つい語釈を中心にしてしまいます。そして全体の意味として通釈を試みます。そこで終わってしまうことが多いように感じます。解釈というのは、文字通り解釈するのですが、語釈、通釈を通して意味を理解し、価値を与えることです。ところが、単に通釈までで終わってしまい、結局は詩の言葉を言い換えているにすぎないのです。言い換えでなく、その詩の意味は、価値はなんであるかを論じるところに意味があり、その結果のものが意見です。その過程がいろいろとあり、人によって価値が異なるのであるから、解釈がことなる。それはいいのですが、まとめるということ自体はほとんどの場合は一つかもしません。それは内容の一つでなくて、価値を与える、自分なりの意味を証明する、そのことに尽きると思います。自由に読むことと、正しく読むこと、それは両立します。片方のみではないのです。自由に読んでいくこと、その過程で正しく読んでいきます。正しいということ自体か価値的であるからこそ、自由に読むという方法が必要なのです。人によって解釈が変わるということは個性です。個性があるから、読みが異なる。読むという行為自体なら同じですが、読んだ結果の意味づけはことなります。

 最近は書いたまま、つらつらと流しているので、誤字が多いようです。多いようですというのも、実は見直していないので、どこに誤字があるかも認識していません。一度書いたこの文章も見直すこと、読み返すことはありませんから、その書いたという事実のみが残っていて、書き記すということだけが重要になっています。もっとも意識がはっきりしているときは仕事をしていて、意識がはっきりしないから、これを書いているわけですから、意味不明や誤字はしかたないのかもしれません。いや、そういうミスを肯定しているのではありませんで、単なる弁解です。見せる以上、誤字はなくした方がいいというのがあたりまえなのですが、このような散文を見直しするのもめんどうなので、していないというのが事実でしょう。
 でも、この心理的な背景を考えると、読み手の反応まで考えて書いてはないということなのでしょうか。配慮に欠けるということでもあります。実際のところ、ここを見る人は当初はほとんどいませんでしたから、気楽に書いていたというのが事実で、最近には反応が多くて、広がりが見えているらしいのです。というのも、昨日の学会で遠くの方からも反応がありました。読み手がだれかわからないけど、読まれているというのは、ある意味では怖いように感じますが、多くの作家が読み手を知らないまま読まれているわけですから、それはそれでいいと思います。
 だれのためでなく、自分のために書いていくこと、書くことは自分意識を発見することであって、継続することは力です。いや、力があるから継続するのでしょう。継続している人は強いと思いますね。多くのサイトが生まれ、消えていきますから。そう、続けていくこと自体は力ですから、自分の力を信じて発信していって欲しいですね。サイトが増えることは文化の全体が増えることですから、それが有害、無害であろうとも、どのようなものであろうとも、それはネットの社会が活性化していくのです。生命体としてのネットが生きる道は、発信していくことにあるのです。そしてそこから自分の表現というものをつかんでいくこと、そこに価値があると思います。自己満足といってしまえばその通りですが、しかし、自己満足ということはなかなかできない。だからこそ、自己の表現を信じていくことが必要なのです。この時代だからこそ、不特定な人からの信頼、あるいは反応というものを楽しむことができるのではないでしょうか。
 私が自分の掲示板を消したのは、その反応を待っている自分がいたからです。反応を待ってしまうと、反応がない時がむなしくなります。むしろ、反応はないものという前提に立つと、楽になります。反応はないのがふつうとして、ある場合は答える、いわば質問があったら答えるという方法が楽なのではないでしょうか。その意味では、ある程度の枠、つまり閉鎖された空間での掲示板は今までも何度も作っては消してきましたから、閉鎖された空間、あるいは限られた人だけの掲示板というのは、まだまだ作る予定はあります。要望があればの話ですが。

 おとといの懇親会で小森陽一先生が話していた、「左と右の真ん中にはなにがある」、これはなかな深い話でした。そしてアニメについても、ある話にギリシヤの神が出ている、それをみることで日本の子供たちはギリシア神話について詳しい、そういう状況をどのように捉えるかという投げかけがありました。作品名を忘れてしまったので、当日の参加者に問い合わせますが、アニメ・コミックの有識者のみなさんに尋ねると、「ポケモン」には神の名前、「セーラームーン」は惑星と星座の名前、「NARUTO」もそのような名前があるそうです。アニメ、音楽、本、この文化の共通点があると最近感じていて、いつかきっと解明してみたいと思います。最近の『キャラクター小説の書き方』がヒントになっています。スニーカー文庫や二次元の漫画を三次元にする、あるいは動画化していくこと、そしてその音楽に共通の意識があること、それらは何か文化として高い香りがしています。
 アニメが単なる娯楽でなく、作者の世界観の表現とすれば、哲学的な内容を含むものであり、いろいろな知識、特に風水的なものや五行思想的なもの、神話的なもの、さまざまなものがあり、それらが知識として授与される、そのシステムは教科書とは別の意味や価値を持っていると思います。それをアニメを中心とした文化としてとらえたいというのが、私の趣旨です。それゆえに、今年は今までまったく見もしなかったアニメというものに挑戦している理由で、「Get Backers」「NARUTO」と続けて見ようとしている理由です。
 この試みも一昨年からのビジュアル系バンドついての調査の延長にあります。「金田一少年の事件簿」にLaputaが、その他にもいろいろなバンドが使われていること、逆にビジュアル系バンドの多くの人たちがゲーム好きであること、そうなると、音楽にゲームの世界、あるいはゲーム音楽の影響があると思います。それゆえ、最近ゲーム音楽のCDを買ったりします。ただ、ゲームをする物理的な時間がないため、ゲーム機は買っていませんし、パソコンでもしていません。はるか昔はしていましたが。「スタートレック」とか。まだ8ビットのころ、FM-8の頃でした。
 もっと、子供の取り巻く状況をきちんと把握したい、それが私の原点です。それがコミュニケーションの研究に参加させ、そして言語生活を扱う理由でもあります。

 「アンティーク」を借りてきました。今日はこれを見て、そして「Love letter」を見ます。「花とアリス」のDVDも用意して、それで鑑賞。明日は夜に会議が二つ。今年も忙しい日々です。ここ数日の休みをいただいたら、どんどん仕事をしていきます。
 原作とかなり違うという意見で、三次元はどうかということも考えられます。別段意地でもないので、原作を尊重する態度は、当然といえば当然なのですね。たとえば源氏物語を「あさきゆめみし」から入るようなものです。それがいいとは限りません。原作があるなら原作を尊重するのが、それはいいことなのです。
 「アンティーク」のいいところは、沈黙、察することですね。

 口内炎は私もよくできてしまいます。ちょっと体調を崩すと、すぐに噛んでしまい、それで口内炎に。そうなると「ケナログ」の出番ですが、あまり使いたくはありません。すぐ噛んでしまうのは、口の中が貼れることもありますが、ビタミン不足ですね。ところが睡眠不足状態のときには口内炎はできませんでした。むしろ食べ過ぎも原因の一つだと思います。口内炎の痛み、よくわかります。30歳ぐらいまでは、苦しむこと何度もありましたから。痛くなる前に薬で治すのが一番いいですね。

 この数週間、左の背中が痛みます。しびれるのですね。何が原因でしょうか。もう少し様子を見ます。

 そう、昨日の就寝時間は3:00、起床は7:15。4:15の睡眠。少し寝過ぎです。少し寝坊です。昼に職場で15分ほど仮眠。寝たらよけいぼけてしまいました。

 昔遊んだ、セメダインのようなもので、風船をつくるもの、それを見ました。今の子供たちの世代も同じように楽しんでいたのです。娯楽はいつまでも、娯楽。いいものはいいものなのかもしれません。

 おくやみの方が日常に戻っているのを見ると、何もできないのですが、心の中で応援しています。もちろん、何もできませんが。

 昨日、5月25日の学会の印象が強くて、いい記念日として、そして、去年とは違った新しい日であることをうれしく思い、来年はどうであるか、また考えていくことにします。
 大分鬱病は消えてきたようです。忙しいせいか、死を意識することがなくなってきました。充実感、忙しさ、その忙しさ、そして一番の成果は学会で研究が集まったことですね。発表者がそれぞれ持ち寄るという価値、それが原動力になったようです。これなら、毎月学会があってもいいですね。

 まだこれから調整しますが、夏に野地先生、橋本先生、大槻先生を訪ねる旅をしようかと思います。沖縄学会の旅費もないのですが、広島と徳島に行って聞きたいことが出てきました。それで、野地先生の著作集も購入。さすがに一括払いはできないから、分割で。13万は高額だけど、でも必要ですからね。欲しい本はその時に買わないと、なくなります。ほんの値段は財産でなく、価値ですから。高くても自分にとって価値があるなら買うべきですね。その時に欲しい本は、後になって欲しくなくなりますし、知識欲もなくなります。知識欲のある時に知識を得ないと知識は蓄積され、情報化できなくなります。だからこそ、知りたいときに情報をすぐに得る技術が必要なのです。それを情報収集能力が必要な一因だと思います。

 どこにいても不愉快なのが、自分の無力を棚に上げた愚痴ですね。学ぶ姿勢のある人はいいのですが、管理的な立場にある人、まあ率直に言えば教師に多いですが、愚痴を言いいます。もちろん誰でも愚痴は言うのですが、「今日も提出物を出さなかった。なんど言ってもだめで、その場で書かせいないと出さない。」そんなことです。そしてついに保護者に電話をして「昨年から状況が変わりません。これからそのような状態では困ります。こちらも出すように言って、忘れた場合も申し出るように指導しているのに、直りません。」と言ってしまいます。提出期限を守らせることは当然であり、出さない方が悪いのは事実ですね。しかし、この場合は言い方には間違いがある。言っておいてその指示通りできないというのは「指導」ではありません。指導とは指導しているわけで、上記の場合は伝達です。本人を呼び、そしてこの時にはこのようにするという矯正を含めたやりとりが指導であって、本人が提出物を出さないかもしれないという状況を事前に把握できているのもかかわらず、伝達だけですませるのは指導ではありません。そして、実際に指導ができていないから提出しないのです。反抗的ならまだしも、本人は忘れているわけで、それは指導ではないでしょう。「こちらも伝えてありますが」というならわかります。つまり、効果のない指導なら、その教師、学校の指導というものはその程度なのです。
 ただ、その場合でも家庭に問題がある場合は、その指導は適切ということになります。家庭、保護者が協力体制を持たない場合、その結果として子供がルールを守らない、あるいは向上しないのは、コミュニケーションの問題であり、指導の質とは異なります。これはなかなか難しいものです。
 私が同僚と夜、飲みに行かなくなったのは、そういう愚痴を聞くことが嫌になったからです。こういう子供がいるから、どのように授業を組み立てたらいいのか、面接はどうしたらいいのか、など発展的な内容ならいいのですが、愚痴を言うこと自体は、教師が自分の権力を笠に着て、自分の非力を棚におくことになります。掃除しない子供がいれば、掃除させられない自分の非力を反省してしまいます。そういう価値観がある人なら話しても向上するのですが、そうでなくて、子供や家庭のせいにすること、自分が悪いのにそのように転嫁する姿勢がある人とは交わると、私の方が不愉快になる。そういう私のわがままもあります。
 以前、私がよく笑わないといわれるのは、ここに理由があります。実は笑っているのですが、笑うような相手が今は少ないということとです。もちろんそういう意見を異にする人とも生きていくわけですから、異質な者のと共生は意識しています。仕事の上では。でも、それ以上には踏み込まない。それが原則。「議論するなら自分が成長する相手とする」、そのようなことを、むのたけじさんは言っていたといいます。昔、大学の先輩は「だめな奴と話すと自分もだめになる」と言ってました。よくわかります。そのせりふ。そういうだめな人を矯正していくことも必要だと感じていますが、そのエネルギーは私にはない。子供たちだけでせいいっぱいというのが実情です。自分と意見を異にし、お互いに高められない大人相手にするには、時間が足りません。

 学会初日の帰り、田近先生と帰り道、「先生が学会を誘致していただいて、勉強になりました。」と御礼を言ったら、「いや、君がやりましょうと言ったからだよ」と気を遣ってくださり、その上、「あうんの呼吸だね」と言ってくれました。今までほめられたことがないから、そういう言葉をかけられると、ちょっと恥ずかしく、距離が離れたかとも思います。でも、確かに「あうん」の呼吸でやりましょうと、トントン拍子だったと思います。その分、理事長をはじめ理事会ではお世話になりましたが。桑原先生、塚田先生、甲斐先生への今まで恩返しのつもりでした。
 沖縄、千葉、鹿児島でもお手伝いにいく予定です。もちろん、そのうち一つぐらいは発表をします。

 そのうちに休みを取りたいのですが、月、火、金は無理なので、水か土になります。そうなるとまた課題などになってしまい、それもまた忍びない。結局は夏まではこのままになりそうです。

 本日購入の本。
宮本敏夫『図解雑学 脳のはたらき近くと錯覚』ナツメ社
山下富美代『図解雑学 発達心理学』ナツメ社
加藤弘一『図解雑学 文字コード』ナツメ社
塚越一雄『図解雑学 プログラミング言語』ナツメ社
夢現舎『図解雑学 論理パズル』ナツメ社
陰山英男『学力低下を克服する本』文芸春秋
陰山英男『本当の学力をつける本』文芸春秋
陰山英男『「読み・書き・計算」で学力再生』小学館
 雑学系は趣味ですね。塚越さんの本は書き方も含めて読みたいと思いました。それと、最近話題の陰山さんの本。向山流がいつの間にか陰山方式に移行しているようです。各地の小学校です。それゆえ流行ではありますが、教育の問題と学校の問題にも兼ね併せて考えるべきでしょう。

 昨日は学文社の中谷さんと久しぶりに会いました。お元気そうでなりよりでした。本はあまり売れませんでしたが。いずれ買いたいと思います。本を買うことで、本屋さんとつながりができますし、それで情報提供などいいこともあります。買う、売るという関係は大切です。

 懇親会の時、リーガロイヤルの宴会係の人は、早稲田の高等学院を昭和26年に入学したそうです。確かそのころ。まだ、第一文学部にあった頃で、グラウンドは空襲の穴があって、野球をしていると外野の守備がよく穴に落ちたそうです。まだ恩賜館があって、レンガの壁のみ残り、中は空襲で壊されていたそうです。しかし早稲田のキャンパスでは恩賜館のみ残っていて、ピンポイントの爆撃だったと言ってました。そういう技術はすでにあったのです。戦後のことをお聞きすると、そういう時代を経た人たちが今の世の中を作り上げてきた、苦労がしのばれます。
 なかなか宴会担当の方はいい方でした。意気に感じるとはこのことです。いずれまたリーガロイヤルを使いたいと思います。もちろん、ケータリングになりますが。その方が半額近くやすくなります。

 いや、久しぶりに書き連ねました。今までになく30分もかけてしまったので、これからすぐ仕事に。


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