鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.04.02 「限定」という思想

 歯の方は楽になってきました。もうマスクは要りません。冷やしてはいますが、腫れはひかないようです。もともとの顔かもしれませんが。

 湯治の時に考えたのですが、ふと入った蕎麦屋に「限定」の文字が。限定品という思想の背景には、いつでもどこでも均質として同じものがあるいう意識が働いています。そしてそれが当然のように存在している。限定されているのは、特殊であり、その時のものであり、それは特別なのです。でも、どうでしょうか。無尽蔵のものは一切ありません。地球だって、46億年ほどには滅亡しますね。蕎麦屋でも、そばがなくなれば、おしまいです。
 江戸時代のことを考えると、蕎麦屋ではそば粉がなくなるまで、打ち続けるでしょう。それがなくなれば店じまいです。だから、限定ということは当然なのです。当たり前の時に、「限定」という言葉使いません。だからこそ、限定でなくて、無尽蔵、均質という意識があるからこそ、「限定」という言葉が際だってきます。「自然食品」という言葉がありますが、その背景には、すべてものが人工食品、機械製造という意識があるから、「自然食品」ということばか宣伝文句になります。あらゆるものが自然食品なら、「自然食品」という言葉は宣伝文句になりません。
 限定品がまかり通ることは、「限定品だから、売り切れたらごめんなさい」という気持ちも入っています。いつも売れ切れだったら、客は文句を言います。だから、「限定」という言葉で、売り切れたらの謝意を前もって伝えることができます。その意味では「限定」という思想には、限りあるという意味のみではなくて、無尽蔵、サービスできないことが悪いことという思想があることになります。
 むしろ、「限定」ということを銘打つことが果たしていいことなのか、それでごまかされているのは、自分自身の意識の中に、すでに植え付けられてしまった「無尽蔵」「均質」「自分も受けるべき権利」などの思想がはいっていること、それを打ち破れないでいることに気づかないことです。自分の中にある思想としてすでに植え付けられたものが、文化ではなくて、その考えがすでに自分の中に正しいかどうかという判断もない状態であることが不自然なのです。それを洗脳と言うならば、もっと私たちの中には、宗教とは違った、催眠術とは違った、意識の中に植え付けられた思想があるのです。
 「限定」という言葉に対してしもう一度、考えて、その真贋を判断するだけの力を持つ必要があるでしょう。


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