2002.11.03 音楽の確からしさ
 別段この「日乗」も毎日書くという意識はなくて、書けるときに書いておこうという意識で行っておりますから、書かないときもあります。徒然というには気紛れですが、書くときに書いておけば書かないときはそのままで過ごせるからです。過去をネタにすると行き詰まります。現在進行形のものを書けばいくらでも書けます。そのような形が望ましいのですが、進歩がなかなか見えない。それゆえ、しばらくは過去のことを書いてきました。そしてこれからも過去と現在を書き続けることでしょう。

 歴史的な作曲家が作曲した時に、各自の頭にある音はどようなものだったでしようか。執筆当時のベートーベンや、バッハや、モーツァルトはどのような楽器の音色を想定していたのか。それと、編成と。現在にその音色と編成を忠実に再現したらどうなるか、これは楽しみです。たぶんそのようなCDはあるのでしょうが、まだ探していません。雅楽でもそういう問題があります。譜面がなかなか残っていないのと、譜面がない場合もあって、ことは複雑です。特に雅楽では戦後になってピッチを決めたため、忠実な再現とはならないと思います。再現することが大切なのではなくて、現在に生きるのが大切なのですが、さまざまな解釈、カルチュラルスタディーズの観点からは、忠実な再現が求められると思います。昔の音、それはどのようなものだったか。源氏物語では、金田一春彦さんが監修した、平安での発音を再現した朗読テープがあります。それを参照するといいのですが、雅楽の場合はどうだったのか、舞楽の舞はどうだったか、知りたいものです。食事については大分見えてきましたが、音についは、形に残らないものなので、わかりにくいのです。

 バンドの編成もギター、ベース、ドラム、キーボードと大体同じになっています。近代になって、クラシックでも新しい楽器が創造された。しかし、現在は新しい楽器は入らない。今でも1800年のまま演奏されているのです。もっともっと進歩していいのではないかと思います。編成も音色も。広く、そして深く。そういう広がりにある音楽が今必要だと思います。

 以前はコンピュータ音楽といえば、富田勲氏の「惑星」に見られように、いかにもコンピュータを使ったという音を出しました。それは、YMOもそうです。コンピュータを使うことで、コンピュータらしい、いや、人間が創造するコンピュータの音を入れてました。しかし、今はコンピュータを使うが、生音に使い音を出そうとしています。生音をコンピュータで作れるのですから、楽になります。しかし、そうであると、本来あるべき専門的な音楽家を排除する傾向も生じてしまう可能性があります。専門的な技術者と簡略化、それは相反することですが、それを乗り越えることから音楽と生活の共存があると思います。

Copyright 黒川孝広 © 2002,Kurokawa Takahiro All rights reserved.