鴛鴦呼蝉庵日乗
  2001.10.12 風呂
 病気でもない限り、毎日風呂に入ります。以前のアパートの時は、風呂の水も節約して入っては風呂用の塩素を入れて、それで数日持たせたものです。今では、植木や洗濯の水やりに使いますが、毎日取り替えています。ちょっとぜいたくな話です。
 子どもの頃を思い出すと、一日おきに入っていたような気がします。寒いときは2日置きに入っていた記憶もあります。小学校に上がるまでの風呂は、木の桶で出来ていて、すのこの上で体を洗っていました。そのすのこの木のささくれだったところが足に刺さったりしたものです。その桶の風呂はガスででしたが、毎日入った記憶はありません。その後の風呂はタイルのものとなり、小学生の高学年になると、風呂のガスを付けるのが仕事となりました。昔の風呂釜ですから、まず口火をマッチでつけます。その口火は、しばらくガスを出してからつけるものですから、ガスの量によっては火が手元まで出てきて、手の甲の毛を焦がしてしまいます。そんなスリルのある儀式でした。脱衣場はせまく、半畳ほどのスペースで、そして風呂に入るのですが、中学生となると一番最後に入るくせがついてしまい、その頃は夜遅くなるので、近所迷惑となるため、そおっと入った記憶があります。
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 汗っかきの私は、風呂を出ると風呂に入っているよりも汗をかきます。それで、汗がひくまでが40分近く、そして、水分を補給をしてそして、やっと床につきます。汗をかいてしまうため、本も読めません。しばしリラックスする時間のはずですが、実際にはあせったりして、なかなか充実しません。それでも風呂に入ることは楽しみです。子どもの頃に祭りで御輿をかつぐと、銭湯のただ券が配られます。実際には町内会の子供会の予算なのでしょう。それで、近所の友達と銭湯に行くのですが、そうすると、子供会の担当の大人たちも入っていて、一緒に遊んでくれました。そんな社会があって、町内というものがしっかりしていて、それゆえに泥棒も全くなかったのです。もっとも、それは下町ゆえに盗むものがまったくないということもありましょう。近所のおじさんがステテコで風呂桶を抱えて家路につくのをよく見ることが出来ました。
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 蔵前の国技館に行ったとき、まだ子どもたちが支度部屋に入ることができた時代です。関取がその部屋に帰ってくると、まず風呂に入ります。そこで砂や汗を流すのです。ちょっと大きめの桶にざぶんと入る関取はそれこそ、恐竜でした。子どもたちはそんな関取の背中にお湯をかけます。もっとも子どものことですから、大した量ではないのでしょう。そんな子どもを相手に遊んだくれた関取がいっぱいいました。今でも記憶に残っている関取で遊んでくれたのが「長浜」関です。子どもをぶらさげたり、いろいろ相手になってくれました。
 一年たって、子どもたちは支度部屋に入ることは禁止されました。それから関取と子どもたちの距離は遠のいたのです。相撲は一緒に楽しむものから、見るものへと変化し、その結果子どもたちは蔵前国技館から遠のいたのでした。
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 子どもの頃のタイルの風呂で使っていた板があります。私はそれを風呂板と呼んでいました。それでお湯をかきまわし、時には、その板に頭ぶつけたり、それは思い出の板でした。その家を出るとき、私は風呂板を2枚持っていきました。その一枚に作品を書いて、書の仲間の展覧会でいつも展示しています。思えばもう20年も展覧会で展示し続けていることになります。その板には「風呂板」と書いておきました。自分の過去の記録と、記憶と、そして思い出、供養、そんな気持ちを込めて書いたものです。
風呂板の上下は長年の使用で朽ちています。しかし、その黒光りする趣はなんとも言い難いものがあります。

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