守屋荒美雄の初期教育論「生徒ノ自治思想養成法」
2024.5.15
黒川 孝広
はじめに
守屋荒美雄(一八七二(明治五)〜一九三八(昭和一三))は法政大学の卒業生であることから、法政大学と関わりがあった。特に、法政大学の理事となってから、自ら提案した事業を担った。この法政大学との関わりは、『守屋荒美雄伝』と法政大学の年史資料に散見されるだけで、まとめられたものはなかった。そこで、守屋荒美雄と法政大学との関わりを、資料を中心として整理することにする。
守屋荒美雄の業績を概観すると、四つに分けられる。この四つは時間軸で区別するのではなく、重層的な業績であり、特に年齢を重ねる度に業績を増やしているのは、常に向上心を持ち、挑戦し続けていた結果である。
教育実践者 一八歳〜四九歳(初等教育一八歳〜二六歳、中等教育二六歳〜四九歳)
著作者 三一歳〜六六歳(一九八点の教科書執筆、著書・雑誌の出版)
会社経営者 四六歳〜六六歳(帝国書院の設立と運営、蛍雪書院の事務)
学校経営者 六〇歳〜六六歳(出資、設立、名誉職としての校長、理事)
このうち、法政大学に関わるのは、和仏法律学校で学んだ「教育実践者」時代と、法政大学理事となった「学校経営者」時代である。特に、一九三四(昭和九)年七月に法政大学理事に就任し、没年の一九三八(昭和一三)年二月まで、三年半という短期間に幾多の事業を担当した。この時期は教科書執筆、帝国書院経営、関東商業高等学校理事、吉備商業学校理事、順天中学校理事、武蔵野高等音楽学校理事、市川中学校理事、日本大学理事、帝国教育学園設立と多忙な時期であったが、そのような状況でも時間を割いて法政大学の事業に関わった。
この守屋荒美雄と法政大学との関わりについて、次の点を扱う。
一 和仏法律学校
二 法政大学維持員・理事
三 法政騒動
四 武蔵野法政寮
五 守屋奨学資金
六 満州学生寮
七 法政中学校
八 法政大学関係者
なお守屋荒美雄は、一八九八(明治三一)年に守屋荒三から守屋荒美雄と改名するが、本文記述では時代区分に限らず守屋荒美雄に統一する。
一 和仏法律学校
(1)和仏法律学校への入学
守屋荒美雄は一八八九(明治二二)年、一七歳で深津県(岡山県)浅口郡西阿知町の西ノ浦高等小学校に受業生として初等教育の教育実践者として活動を開始する。地理、歴史、代数、法律への関心が強く、特に法律は早稲田法律学校の校外生(通信教育に相当)となり法律研究を始めるなど学問への志が強く、「高等文官試験」への志が生まれた。岡山県の「文検」の予備試験に合格すると、上京し本試験受験を決意する。第一目的の高等文官試験は難関であるため和仏法律学校に進学することも上京の目的の一つであった。
一八九六(明治二九)年五月、二四歳で上京すると、まず文部省教員検定試験を受験し、中学・高校の「地理(地誌)」に合格、一八九八(明治三一)年には中学・高校・師範学校の「地文」に合格する。高等文官試験が第一の目的であったが、周囲のすすめにより一八九六(明治二九)年六月に牛込区愛日小学校に勤務する。が、高等文官試験に専念するために五ヶ月で辞任している。また、一八九七(明治三〇)年二月、二五歳で青森県師範学校に就任しながら、半年で帰京するのは、同じく高等文官試験の準備のため、和仏法律学校で勉学することを望んだからである。
この上京を支援したのが、東京府師範学校教諭の大橋雅彦で、かつて母校の西原小学校訓導であった。大橋雅彦は守屋荒美雄に千住の小学校を紹介したが、法律学校に通うのに不便であるので、断っている。守屋荒美雄から大橋雅彦への書簡では学校名は明記されていないが、和仏法律学校への入学を希望していることが伺える。
殊に千住と申せば希望の法律校へも相当の距離有之到底始業時間の間に合ひ不申(1)
守屋荒美雄が和仏法律学校への入学時期を示す資料は未見であるが、一八九七(明治三〇)年二月から七月まで青森県師範学校助教授兼書記で東京にいなかったことを踏まえると、一八九六(明治二九)年五月から一八九七(明治三〇)年一月までと、一八九七(明治三〇)年九月頃の入学のいずれかと思われる。卒業は、一九〇一(明治三四)年七月で、その後、和仏法律学校は一九〇六(明治三九)年に法政大学に改名するので、守屋荒美雄は法政大学の卒業生とされた(2)。
卒業時期は、各種の資料に明記されていて、一九〇一(明治三四)年七月第十七回生として、和仏法律学校法律科を卒業したことが分かっている。同期卒業生には、法政大学理事の佐竹巳之松、法政大学事務長の石原三郎が、同時期の学んだ仲間に法政大学教授の成毛基雄がいた(3)。
卒業後、和仏法律学校で学んだ成果をもとに、小学校の教育行政について『法令上より観察したる小学校教員』(六盟館、一九〇七(明治四〇))を発刊している。同書は、「法学士井上謙作・明法学士江本清平」の共著と題しているが、巻頭言には守屋荒美雄の筆名である「龍淵生」で書かれていたこと、巻頭に「本書に対する批評質問その他は小石川区小日向台町三丁目四十九番地守屋龍淵宛に願上候」とあること、共著者の井上謙作(一八七三(明治六)生)は帝国大学出身の検事・弁護士で同書出版の時は京城にいたたこと、同じく共著者の江本清平(一八八二(明治一五)生)は明治大学出身の検事で同書出版の時は判事検事登用試験の準備で執筆する時間はなかったこと、井上謙作と江本清平は教育関係に携わったことがないこと、これらから実質的な執筆は守屋荒美雄一人で行ったと見られる。法律について書かれた「第二編 法学入門」では、「花笑ひ、胡蝶の狂ふ三春の天地は、何時しか、蝉声喧しき槐陰に、午睡を貪るべき三伏の候となり」から始まる美文調で、その後の「第三編 本論」では、「願くは識者注意せよ、物価騰貴の現時に於ても、世には尚ほ六年の俸給を受くる教員あることを」など現職教員から見た記述が多くあり、文体は全体を通して似ていることからも、守屋荒美雄一人での執筆であると判断できる。教育の現状や教員の在り方を論ずるに、法律概論を入れたことからも、和仏法律学校で学んだ成果が同書に現れていると言えよう。
(2)和仏法律学校の校友会出席
守屋荒美雄は和仏法律学校卒業後も頻繁に校友会に参加している。
一九〇二(明治三五)年四月に和仏法律学校の校友春季総会が開催され、守屋荒美雄は総会と、総会後に麹町の富士見軒で開かれた懇親会に参加している。この懇親会には、梅謙次郎、原夫次郎、秋山雅之介、守屋此助などが参加していた(4)。
続く、一九〇二(明治三五)年五月には和仏法律学校の校友会東京支部臨時総会が開かれ、これに守屋荒美雄は出席している。この会には、秋山雅之介、石原三郎、原夫次郎などが参加していた(5)。
校友会の資料が少ないため、その他にも参加したと思われるが、未見である。母校、和仏法律学校への思いが、校友会参加につながり、それが後に維持員に選出されることになるのである。
二 法政大学維持員・理事
(1)維持員
一九三二(昭和七)年六月に法政大学は財政のため校債を発行することになり、その校債募集委員会に守屋荒美雄は校友の立場から就任している。
昭和初年のわが國の経済不況に加えるに大学当局の経営の拙劣もあって、財政難におちいった。
そこで校友会は、「本校に於て新に時勢に伴ふ計画等の為め校債募集の必要に迫られた」として、校友の援助を求め、昭和七年(一九三二)六月校債募集委員会が開かれた。七月にはそれは法政大学臨時拡張委員会と改称され、実行委員長原夫次郎、実行委員に守屋荒美雄等一四名が嘱託された。(6)
この法政大学臨時拡張委員会が開かれてから五ヶ月後に、守屋荒美雄は維持員会員に新規に就任した。法政大学の維持員は一八九八(明治三一)年の寄附行為で設けられ、理事・監事・旧理事員・校友会にて構成されていた。この維持員の校友会枠に守屋荒美雄は一九三二(昭和七)一二月一〇日に就任した。維持員の新任・継続の記録を『法政大学史資料集 第13集』から引用すると次の通りである(7)。
昭和七年十二月十日 守屋荒美雄(帝国書院社長) 新任 明治三十四年卒(8)
昭和八年十二月十日 守屋荒美雄 継続
昭和九年十一月三十日 守屋荒美雄 継続(9)
昭和十年十一月三十日 守屋荒美雄 継続
昭和十一年十一月三十日 守屋荒美雄 継続
昭和十二年十一月三十日 守屋荒美雄 継続
守屋荒美雄が維持員に就任した時に、すでに維持員だった中に秋山雅之介、水町袈裟六、上林敬次郎、佐竹巳之松、竹内賀久治、成毛基雄らがいた。また、守屋荒美雄と同時に新規に維持員になった中に井本健作、小山松吉、小山龍之輔、高木友三郎、野上豊市郎らがいた。
その後、守屋荒美雄は維持員会にたびたび出席している。維持員会の参加の記録を見ると、一九三四(昭和九)年三月二日に寄附行為の変更が議決され、その署名に守屋荒美雄氏が参加している。出席者には、秋山雅之介、原文次郎、岡村玉造、佐竹巳之松、竹内賀久治、野口保市郎、小山龍之輔、御巫清勇、小野武夫らがいた(10)。
一九三四(昭和九)年五月一七日の維持員会議で寄附行為の変更が議決され、学長が総長に変更になった。その署名に守屋荒美雄氏が参加している。出席者には、秋山雅之介、原文次郎、岡村玉造、佐竹巳之松、竹内賀久治、野口保市郎、小山龍之輔、御巫清勇、小野武夫らがいた(11)。
昭和九年(一九三四)五月一七日に開かれた維持員会において、すでに提出された秋山雅之介の学長・理事辞任の申し入れを受理し、その後任として維持員水町袈裟六を理事に専任するとともに、全員一致で水町を総長に推薦した。(略)
この日の維持員の出席者は、原誠、薬師寺志光、守屋荒美雄、細川潤一郎、木村浅治、吉野千代吉、佐竹巳之松、上林敬次郎(議長)、今泉国太郎、高木友三郎、御巫清勇、野口保市郎、田熊福七郎、竹内賀久治、岡村玉造、原夫次郎の一六名であった。(12)
一九三七(昭和一二)年一一月三〇日以降の維持員会の記録は未見であるが、守屋荒美雄が逝去する一九三八(昭和一三)年二月八日まで維持員であったと思われる。
(2)理事
守屋荒美雄が法政大学の理事に就任するのは一九三四(昭和九)年七月一四日で、六二歳であった。
7・14 守屋荒美雄理事に就任(13)
当時総長であった水町袈裟六が一九三四(昭和九)七月一〇日に逝去したため、理事会は小山松吉理事を総長に選任し、常任理事であった水町袈裟六の後任として維持員であった守屋荒美雄を理事に選出した。
水町総長が死亡したので、理事会は直ちに互選によって小山松吉理事を後任総長として選任した。同時に七月十四日の維持員会は水町理事の後任として校友の守屋荒美雄を補欠選任した。(14)
理事就任は『法政大学新聞』第四六号で紹介された。同記事では「清廉潔白の士」「本学の為に尽くし」「刻苦研鑽」「努力家」と好意的に守屋荒美雄を紹介している。
校友本学維持員守屋荒美雄氏は水町前総長薨去により理事に欠員を生じた為、去七月十四日維持員会の議決によつて理事に補選された、同氏は明治三十四年和仏法律学校時代出身の清廉潔白の士で、以来本学の為に尽くし、刻苦研鑽し、現在帝国書院社長の任にあり努力家である。(15)
理事就任時の理事一覧は『法政大学史資料集 第13集』から引用すると次の通りである(16)。一九三四(昭和九)年四月から常任理事制が新たに採られる。学務理事、財務・庶務理事、企画・学生・就職担当理事、学監と選ばれることになった。
昭和九年十一月三十日、昭和十年十一月三十日
小山松吉 代表理事・総長 (昭九・七・一一〜)
岡村玉造 常務理事 (昭九・四・二〜)
佐竹巳之松 常務理事 (昭九・一一・一九〜)
上林敬太郎 理事 (昭九・五〜)
今泉国太郎 理事 (昭九・四・二〜)
守屋荒美雄 理事 (昭九・七・一四〜)
小野武夫 理事 (昭九・五〜)
横山寛平 理事 (昭九・五〜)
木村浅治 監事 (昭九・五〜)
錦織理一郎 監事 (昭九・五〜)
竹内賀久治 相談役
原夫次郎 相談役 (昭九・四・二)
このあと、守屋荒美雄は常務理事となり、「企画・就職及び中等学校を担当」することになった。
(昭和一〇(一九三五)) 一一月には今泉が理事を退き、代って守屋理事が常務理事になり、企画・就職及び中等学校を担当した。(17)
常務理事になることで、より法政大学の運営に関わることになった。翌年の理事構成は次の通り。
昭和十一年十一月三十日
小山松吉 代表理事・総長
岡村玉造 常務理事
佐竹巳之松 常務理事
守屋荒美雄 常務理事 (昭一一・一一・二五〜)
上林敬太郎 理事
今泉国太郎 理事
小野武夫 理事
横山寛平 監事
木村浅治 監事
錦織理一郎 監事
竹内賀久治 相談役
原夫次郎 相談役
一九三七(昭和一二)年四月からは竹内賀久治、佐竹巳之松、原夫次郎が法政大学の実務を執るようになった。
一二年四月に行われた理事・監事の改選により、理事には小山松吉、岡村玉造、守屋荒美雄、佐竹巳之松と、相談役であった原夫次郎と竹内賀久治が新たに選任された。(略)
翌五月、佐竹が常務理事を辞任し、その後任として竹内賀久治が学務担当常務理事に就任した。(18)
昭和十二年十一月三十日
小山松吉 代表理事・総長 (昭一二・三・三〇〜)
岡村玉造 常務理事
竹内賀久治 常務理事
守屋荒美雄 常務理事
佐竹巳之松 理事
高島菊次郎 理事
原夫次郎 理事
石井豊七郎 監事
小野武夫 監事
木村浅治 監事
守屋荒美雄はこのあと逝去するまで理事のままであった。校友会からの理事であるので、卒業アルバムに写真掲載されることもなく、また、逝去の記事は『法政大学新聞』第八一号か八二号に掲載されたと思われるが、同号は残存していないので確認できていない。
三 法政騒動
法政騒動とは一九三三(昭和八)年から一九三四(昭和九)年にかけて、教授会内部の軋轢が、学生にも影響し、五十名近い教授・講師が辞職ないし罷免となる事態に発展し、一部の教授・講師は後に大学に戻るが、新聞報道もされるなど、社会的な関心となった事件である。法政騒動に関しては、飯田泰三「解題−騒動の背景と基本構図−」(19)、宮永孝「昭和八、九年の「法政騒動」」(20)に詳しく分析されているのと、『法政大学史資料集 第12集』(法政大学、一九八九(平成元))に各資料が網羅されている。
守屋荒美雄は法政騒動の渦中の人物と面会をした。これは騒動を収めようとするよりも、面会をすること自体を楽しんでいたようである。一般的な守屋荒美雄の面会の様子は次のように説明されている。
面会人などに対しても、未知であろうと、紹介が無かろうと、そんなことには一切頓着なく、実業家にも、政治家にも、官吏にも、新聞記者にも、学生にも、浪人にも、職員にも、極めて無造作に面会する。而して何人に対しても、一見旧知の如く、腹蔵なく、自己の所信を披瀝するのである。(21)
法政騒動の関係者も何人とは面会していると思われるが、現存する範囲で確認すると次の通りである。(順不同)
(1)野上豊一郎
野上豊一郎(一八八三(明治一六)〜一九五〇(昭和二五))は法政大学教授で予科長であったが、法政騒動により離職させられた。一九四一(昭和一六)年に復職し、戦後、法政大学の総長になっている。
野上豊一郎の文章に守屋荒美雄との面会の記録はないが、井本健作の一九三四(昭和九)年十二月五日の日記に、野上豊一郎と内田百閧ェ守屋荒美雄と会食した様子が書かれている。
四時頃より野上氏訪問に出かける。野上氏の談に、氏は先日内田、守屋の二人と会食せしが、そのとき守屋いふ、「岡村は井本は学生主事として可なれど、一つ欠点あり。彼は操持なし、初め森田派なりしに、後野上派になりたりと、主張せり」と。(略)それに対して野上氏は大いに弁じ置きたりと。(22)
法政騒動については野上豊一郎の夫人、野上弥生子の日記に詳しく書かれているが、一九三四(昭和九)年十二月は野上弥生子が病気のため、日記を執筆していなかった。一九三四(昭和九)年から一九三八(昭和一三)年にかけての野上弥生子の日記を見ても、守屋荒美雄の名は見られなかった。
(2)内田百
内田百閨i一八八九(明治二二)〜一九七一(昭和四六)、本名内田栄造)は法政大学予科のドイツ語の教授であった。内田百閧ゥら多田基に宛てた葉書には何度か守屋荒美雄の名が見える。
一九三五(昭和一〇)年二月二十二日の多田基宛葉書では、守屋荒美雄と面会したこと、再度、面会するのなら多田基から連絡することを依頼している。
守屋氏(注:守屋荒美雄)ノ許ニハモウ先日行キマシタ ハツキリト林原ヲソノ儘ニスベキデナイ事ヲ話シテ来マタ 貴兄ノ(注:多田基)事ニモ言及シヨウトシタラ向ウデ既ニヨク承知シテ居リ貴兄ヲ褒メテ延期ニナツタ事情等ヲ話シテクレマシタ
シカシ又モウ一度重ネテ行ク事モイイト思ヒマスカラ前日迄ニ小生ガ受取レル様ニ予告ノ葉書ヲヨコシテ誘ヒニ来テ下サレバイツデモ行キマス▽午後ニ限ル▽二十七日ハダメ(23)
一九三五(昭和一〇)年二月二十七日の多田基宛葉書では、多田基から守屋荒美雄と面会日程の調整報告がないことに苛立っている。
守屋サンノトコロヘ誘ヒニ来ラレルカラト思ツテ待ツテヰタガ中中来マセンネ
必ズ前日に御葉書ヲ下サイ(24)
一九三五(昭和一〇)年七月十一日の多田基宛葉書では、内田百閧ゥら守屋荒美雄へ手紙を出したことが書かれている。
帝国書院守屋氏ニ去ル七日手紙ヲ出シタ返事ハナシ(25)
一九三五(昭和一〇)年七月十五日の多田基宛葉書では、七月十一日に書かれている手紙のことか、別に出した手紙かは不明であるが、内田百閧ゥら守屋荒美雄へ手紙を出したことが書かれている。内容は、内田百閧法政大学から追放した関口存男(法政大学教授、ドイツ語)についてである。
守屋老大人ニ関口ノ事ヲハツキリト書イテヤツタ 語学ノ才ヲ野上サンニ認メラレテ浮浪ノ中カラ救ハレタノデアル 私モ当時ノ主任トシテソノ学才ニホレ込ンダ 人ニ認メラレタ自分ノ材ヲタノンデ人ヲ非議スルヤウニナツタ男デアル青年ノ師タル人物デナイ事ハ老台モ必ズ御解リニナル事ト信ズル云云ト云ツテヤツタ(26)
一九三五(昭和一〇)年八月二十八日の多田基宛葉書では、九月の理事会前に守屋荒美雄と会食をする約束について書いている。これ以降、多田基宛葉書には守屋荒美雄のことが出てこない。
秋ノ最初ノ理事会以後ニ守屋大人ノ招宴ヲ受ケテオク事ニシマス(27)
守屋荒美雄は同郷の人に対しては、時間を掛けて面会していた。守屋荒美雄は岡山県浅口郡西阿知村(現在の倉敷市西阿知)の生まれで、内田百閧ヘ岡山県岡山市出身で、同郷として意気投合することがあったのであろう。内田百閧ヘからみれば、自分の状況について思うところを聞いてくれる十七歳年上の守屋荒美雄に親しみを持ったと思われる。
(3)井本健作
井本健作(一八八三(明治一六)〜一九六四(昭和三九))は小説家青木健作の本名で、野上豊一郎の推薦により法政大学教授に就任した。井本健作の日記には、何度か守屋荒美雄のことが書かれている。
一九三四(昭和九)年九月七日の日記では、守屋荒美雄との面会を勧められたことが書かれている。
午後荻原氏来訪。氏は過般法大の理事に就任したる守屋某と懇意なる由につき、法大事件の認識を深め、且つ今後余等の為に正道を踏ましむるため、荻原氏は守屋氏を訪ふべしといふ。余も荻原氏の好意をむげにしりぞくるに忍びず、行つて貰ふ。夕方氏はまた来訪。守屋氏に面会したるが、守屋氏も森田の人物についてはよく知りゐたり。余も知れり。(28)
一九三四(昭和九)年十二月五日の日記では、既出の通り、野上豊一郎を訪問し、野上豊一郎から守屋荒美雄との面会の結果を聞いている。
四時頃より野上氏訪問に出かける。野上氏の談に、氏は先日内田、守屋の二人と会食せしが、そのとき守屋いふ、「岡村は井本は学生主事として可なれど、一つ欠点あり。彼は操持なし、初め森田派なりしに、後野上派になりたりと、主張せり」と。(29)
一九三四(昭和九)年九月七日の日記では井本健作は守屋荒美雄と初めて面会するように読めるが、後述の通り、実際は一九一九(大正八)年頃には面会しているので、知らぬ中ではなかった。
四 武蔵野法政寮
(1)武蔵野法政寮の開設
一九三四(昭和九)年九月に法政大学予科生の寮として武蔵野法政寮が開設された。場所は武蔵野町吉祥寺四一番地で、記録によれば、敷地三千坪、寮舎六棟、部屋は和室六畳で全二百四室、食堂、浴室、娯楽室、道場、テニスコートを備えていた。一室二人の利用の場合は、一日朝夕二食付(日曜祝日は三食付)で月額十九円。一室一人の利用の場合は月額二十二円であった。
この吉祥寺四一番地を登記簿で調べると、一九二八(昭和三)年十二月十七日に守屋荒美雄が小美濃半右衛門から入手し、没年の一九三八(昭和一三)年まで所有し、その後、長男の守屋美賀雄が相続している。その間、法政大学が所有した形跡がないため、法政大学が土地購入・建築をした寮ではなく、守屋荒美雄が建てた寮に、法政大学の学生専用として運用したのである。
この武蔵野法政寮は、『法政大学六十年史』には記載がなく、『法政大学八〇年史』にも大学の事業としての記録はないので、法政大学の公式な寮として認知されなかったのであろう。しかし、寮顧問は法政大学理事の竹内賀久治(後の法政大学総長)、寮監は法政大学学生副主事の池上喜作、寮長は法政大学理事の守屋荒美雄であったことからも、大学側が運営に関わっていたと思われる。
法政騒動の最中にあった法政大学教授の森田草平の日記には、武蔵野法政寮についての記述がある。一九三四(昭和九)年九月一一日の日記には、寮を管轄する学生主事の件で、大学側への批判の一つとして寮のことが書かれている。
おれは学生主事をやめた御巫、飯田の二軒へ挨拶に行かうとしたが、名原君が自分も連れて行つてくれといふので同行す。
田端の御巫君の家ではこれも未だ眠つてゐたらしい。主人の口から、法政では今荻窪の方に法政寮を設け、四五百人も学生を収容する設備を設け(帝国書院の森谷(ママ)より売りつけられたるものの由)今秋は三百人も入寮生があるつもりで、父兄の宅へ勧誘状を発したりと、全く朗らかな話で三十人もあればいいが、あるまいと三人で話し合った。(30)
この日記には、「帝国書院の森谷(注 守屋)より売りつけられたるものの」とあるが、登記簿によれば売買の形跡はないので、噂話を書いたのであろう。売買の事実はないものの、守屋荒美雄が関わっていることは、大学関係者には周知のことであった。ここに記載している「勧誘状」は未見のため、趣旨などが不明であるが、父兄宅への発送となると、大がかりのものであり。大学側が事前に準備する時間があったので、寮開設の準備は八月ぐらいからあったと思われる。
開設された当時の様子は、『法政大学新聞』に詳しいので、以下に紹介記事全文を引用する。なお、『法政大学新聞』は全号は残されていないので、現存する号のみと確認となる。
まずは、寮開設直後の、一九三四(昭和九)年九月二十九日発行の新聞記事「法政寮訪問記 めしは喰ひ放題 なごむ我等が寮 寮監さんはスポーツマン」である。ここには寮生活の様子、詳細が書かれている。ここにも守屋荒美雄が提供していた日本大学工学部寮のことが書かれている。
京阪地方を襲った前古未曾有の大暴風のとばつちりを受け、風速二十米の暴風雨と成った二十二日午後、我等の「法政寮」を武蔵野が原に訪ねた。自動車で市ヶ谷から三十分、西荻窪の駅近くに新らしい日大の寮に隣接して建てる一寸学校みたいな感じのするが「法政大学寮」である。成程閑静な所だ。
案内を乞ふと色の浅黒いがつちりした寮監が出来る。この人が今度広島高校から来られた学生副主事の池上先生だ、話はあと廻しにして先づ部屋を案内してもらう、総坪數二千余坪、部屋二〇〇余室に広大なものだ、先づ玄関の掲示板に気が付く、それはに次の様に日課時間が記してある
日課時間
当分の内左記之通り定む(振鈴合図)
一、起床 六時二十分
一、食事時間 朝食六時半〜七時半、夕食五時〜六時半
一、登校 七時二十分
一、門限 十一時
一、消灯 十二時
浴場目下工事中に就き寮指定浴場入浴券発行す、詳細は事務室へ
門限十一時で寮生諸氏も気を良くしてる事だらうと考へながら各部屋を順次に歩き廻る、どの部屋も六畳の立派なものだ、寝ころぶもの読書するもの色とりどりだ
A君の部屋に失礼して寮生活の感想をたたくと
「別に感想て程の事もありませんが今迄法政の学生は一体に団結心が乏しかつた様に思ひますのでこの寮の生活から法政スピリットを作り度いと思つてます」
と、どうしてなかなかしつかりしたものだ、更に読書中のB君に意見を聞く
「どうです、寮生活は面白いですか」
「未だ学生が少いので少し淋しい様です」
「勉強は出来ますか」
「閑静で勉強にはもつてこいです」
「賄は良いですか」
「朝は何処でも似た様なものですが夜はなかなか御馳走がありますよ」
「ゆうべは一体何でしたか」
「野菜サラダでした」
今から入寮せんとする学生諸君、安心し給へ、B君が賄の方は保証してくれたのだ(31)
寮開設から半年した、一九三五(昭和一〇)年四月二十三日発行の新聞記事「我等の温床 法政寮は招く 朗らかに語る寮監さん」では、寮生が増えていること、寮費のことなどが書かれている。
万象の甦る新緑の好期に多大の付託を一身に荷つて希望に輝く新生活への第一歩を踏出した新入生諸君の人格の錬磨を徹さす為に、本学に於ては昨年より吉祥寺に敷地三千坪、寮舎六棟、部屋数六畳敷二百四室、食堂、浴室、その他娯楽室、道場、テニスコートより成る法政寮を開設して当今の高等教育が学年技術の奴隷的習得に流れんとする傾向ある時真に高邁なる人格、腹の出来た人物の養成のため当寮は健康の阻害、学費の浪費など細心の注意を払ひ設備の完全を期してゐる理想郷である、寮生は都会の塵芥を避けることが出来晴朗、完成、美風の地にあつて適当な指導の下に専ら人格を切磋琢磨することが出来る、量の此頃の様子を学生副主事兼寮監池上氏にお伺いすると
法政寮も昨年九月に開寮したのであるが寮生委員等の献身的努力に依つて其後も確実となり本年度の如きは相当の入寮者がありましたが未だ大学の寄宿寮のどんなものかを解しない人が多い様である、中学校を卒業したばかりの新入生は寮と云へば厳格一点張のものと思つてゐる様です、だが寮を一度見に来た人は必ず入寮して居りますね、新入生が入寮した時上級生が荷物や机等を運んでやつたり入浴につれて行つたりする状態は実に喜ばしいものです、大いに入寮して戴きたい
と話された、法政寮も既に開寮して一年ますますユーモラスな生活に寮生を喜ばしてゐる、猶費用は概略左の通りである
原則として一室二人(一日朝夕二食付、日曜祝日は三食付)合計十九円で、一室一人の場合は二十二円である」(32)
一九三五(昭和一〇)年五月二十三日発行の新聞記事「寮の歓迎会 十一日盛んに挙行さる」では、新入寮生歓迎会の様子が書かれていて、竹内賀久治(後の法政大学総長)が野球戦のカップを寄贈していること、建物ごとに寮名があり、その一つが「弘道寮」であることが書かれている。
武蔵野の一角に法政スピリットの温床我が法政寮は新学年と共に多数の新入生を加へ新緑の武蔵野の天地に全寮生は日夜体育智育徳育に研鑽を積んでゐる、去る十一日土曜日午後七時より新入寮生歓迎会を多数来賓の出席の下に盛会裡に挙行、続いて寮生の余興あり和気藹々裡に十一時解散、続いて十二日(日曜)には対寮野球戦が行はれ寮顧問竹内賀久治氏寄贈の大カップは遂に弘道寮の手に帰し、去十八日午前十時より寮旗の授与式が本校会議室にて行はれた(33)
一九三五(昭和一〇)年十二月六日発行の新聞記事「創立一年を迎へ 温床に盛る感激 賑かな法政寮記念祭」では、守屋荒美雄が寮長として出席したことが書かれている。また、岡村玉造、池上喜作、井本健作が出席していた。
法政スピルの温床を築かうと昨年九月武蔵野の一角にささやかなからも呱呱の声を挙げた我等が法政寮は、誕れて僅か一年足らづだが素晴らしい充実ぶりを見せて、寮生達は朗かな内にも力強い勉学を続けて居り質実剛健をモットーとするだけに寮生の堅実な生活が早くも学校当局は勿論近所の人々にまで歓迎され非常な効果を修めてゐる、此の効果を祝し十一月十六日午後六時から創立一周年を祈念するため法政寮では賑やかな記念祭を挙行した、夜の冷気と共に夕闇が武蔵野を包む頃、先ず寮の食堂では岡村理事を始め守屋寮長、池上寮監、井本学生主事の出席を仰いで盛大な祝宴が挙げられた 寮長、寮監の訓辞 続いて来賓の祝辞等形通りのことが一応終わるとテーブルを囲んで先生も寮生もくつろいだ気持ちで余興にうつつた、何時も寮長、寮監或は理事と言つたいかめしい肩書をお持ちの先生迄が奇妙な手つき、足つき熱心に隠し芸を紹介しては寮生をわきたたせる、寮生も又これに対抗して(※注 2字不明)をうならせる、中には小唄の一つも歌い出すいきな寮生も出現する、然し何時もきびしい寮監様も今日ばかりは説諭なし
斯く珍芸、漫談の続出にその歓声は何時尽きるとも知れなかつたが、午後九時頃には寮規に依つて祝宴を閉ぢ、寮生は夫々興奮に紅潮した頬を夜風に冷しながら各自の部屋へ帰つたので武蔵野は元の静けさを取り戻し茲にめでたく第一回の寮記念祭を終つた(34)
寮の運営の記録は未見なので、寮生の人数や組織、収支については不明であるが、寮生の様子からも寮の設置は意義あることであった。
(2)川崎市木月へ移転
武蔵野法政寮は一九三四(昭和九)年九月に開設したが、一九三六(昭和一一)年に予科が川崎市木月に移転し、その敷地内に寮が設置されたため、武蔵野法政寮の運用は終わった。わずか二年の運用であった。川崎市木月の法政寮は新築されたものではなく、武蔵野法政寮を移築したことが、後の総長である竹内賀久治の『竹内賀久治伝』に説明がある。法政大学理事の竹内賀久治が守屋荒美雄に懇願したのであった。
先生が法政大学総長に推薦された昭和十八年は、大東亜戦争も末期で、物資の窮乏から学生の寮を学校が経営しなければならぬ状況であった。先生は、帝国書院社長の守屋荒美雄氏が、西荻窪に広大な寄宿舎六棟を所有していたのを交渉して、うち四棟の貸与を受けた。その建物を東急沿線の元住吉に移築して、百四十名の学生を収容した。先生みずから寮長となり、小林氏を寮監にした。寮費は月十七円であった。(35)
同書では一九四三(昭和一八)年に移築したと読めるが、守屋荒美雄は一九三七(昭和一二)年末には病臥しているので、貸与移築はその前と考えられる。また、『法政大学校友名鑑』では、落成後に建築とあるので、川崎市木月の法政寮は一九三六(昭和一一)年に移築されたと考えてよい。
昭和十年十月二十五日川崎市木月に建築中なりし予科校舎落成式挙行さる。(略)
予科校舎敷地内に寄宿舎を建築し、法政寮と名付け竹内賀久治氏寮長となり、諸般の施設を完備して予科学生を収容せらる。(36)
武蔵野法政寮と川崎市木月の法政寮は、両方とも「法政寮」と呼ばれたので、記録の上では混乱が見られる。『法政大学百年史』には、移転の概要が説明されていて、一九三六(昭和一一)年に移築開設の「法政寮」が、武蔵野法政寮開設の一九三四(昭和九)年になっている。
大学は昭和一〇年、東京横浜電鉄会社から、川崎市木月に三万坪の土地の提供を受け、昭和一一年一〇月、三階建て鉄筋コンクリート造りの白亜の校舎を竣工した。(中略) 昭和一三年(一九三八)予科教頭(後に予科長)に就任した井本健作教授をはじめとする教職員の努力によって、学生寄宿舎法政寮(昭和九年)、予科図書館(昭和一六年)、予科武道場(昭和一六年)等が敷地内につぎつぎと建築され、総合グラウンド(昭和一四年完成)の設備も年を追って整備された。(37)
(3)建物の経緯
守屋荒美雄は、上京した学生への支援の一つとして、住環境の整備を考えていた。苦学を重ねてきた守屋荒美雄は、学ぶ意欲のある学生を支援しようとしたのである。それまでも多くの学校に支援を行っている。一九三〇(昭和五)年に故郷岡山県の西阿知町にある河内尋常高等小学校の大講堂を建築した。母校の岡山県の西ノ浦尋常高等小学校には百科事典を寄贈した。また、岡山県児島郡の下津井町尋常高等小学校にはピアノを二台寄贈した。守屋荒美雄は牛込の自宅の隣に、岡山県からの上京してきた学生の寮を建てていた。岡山県の学生寮は比較的小人数であったため、より多くの学生を収容する寮の開設を考えたときに、比較的、交通機関の利便性がよく、ある程度の広さの土地が必要であった。守屋荒美雄が吉祥寺四一番地を購入した一九二八(昭和三)年には、武蔵野村から武蔵野町となり、農地が多くあった西荻窪に住宅が建築されてきた時期である。その時に、畑地を住宅用地として開発予定の区画をまとめて購入した。敷地は北側と南側の中央に東西の道路で分断されていて、北側の吉祥寺四一番地にはL字と逆L字の宿舎があり、武蔵野法政寮として利用していた。南側の吉祥寺四二番地には口型の宿舎と付帯する施設が日大工学部(日本大学専門部工科)寮として利用され、一九三一(昭和六)年にはすでに利用されているのが確認されている。日大工学部寮は一九三一(昭和六)年に閉鎖される予定であったが、寮生の懇願により、自炊の寮として、そのまま日本大学工学部生の寮として利用されていた。一九三九(昭和一四)年の地図『武蔵野町三鷹村番地入明細図』(光陽館書店、一九三九(昭和一四))には、日本大学の寮として記載が確認できた。この寮も、日本大学所有ではなく、守屋荒美雄が所有する土地と建物を提供したものであった。
この土地は交通の便もよく、東に徒歩一〇分で西荻窪駅、西に徒歩二〇分で吉祥寺駅があり、北に小野田乗合自動車商会のバス(西荻窪〜四軒寺)、南に進運乗合自動車合資会社のバス(馬橋〜柳橋)があるので、法政大学と日本大学の学生には便利な場所であった。
武蔵野法政寮の東側、吉祥寺三五番地には守屋荒美雄の長女繁子夫婦が住んでいた。夫の増田啓策は守屋荒美雄が創業した帝国書院の社長であった。守屋荒美雄は長女夫婦と逐次連絡することで、寮の状況を把握していた。
寮の前ににある増田様(御令嬢の御婚家)にいつも寮の様子をきき、寮生の態度を伺つてをられるので寮の事は大抵の事は存じだ。(38)
そのため、増田啓策夫婦がすぐ寮に駆けつけられるように、武蔵野法政寮の入り口は東側の増田啓策邸の正面に設置されていた。
この法政寮の建物について調べると、川崎市木月に移築された法政寮は一九四五(昭和二〇)年の空襲により焼失した。一方、吉祥寺四一番地の建物は、その後逓信省に貸し出され逓信講習所の寮となり、戦後もそのままの建物が残された。一九四六(昭和二一)年九月にこの建物に移転したのが、帝国第一高等女学校である。帝国第一高等女学校は、守屋荒美雄が一九三七(昭和一二)年に設置申請をした学校で、開校直前の一九三八(昭和一三)年二月八日に守屋荒美雄が逝去したので、長男の守屋美賀雄が理事長として開校した。淀橋区百人町にあった同校は一九四五(昭和二〇)年四月の空襲で焼け落ち、転々として授業を続けたが、長男の守屋美賀雄は貸与していた逓信省から土地・建物を返却してもらい、寮を教室に改造して、一九四六(昭和二一)年に帝国第一高等女学校(現吉祥女子中学・高等学校)を移転することにした。武蔵野法政寮として使われたこの建物は、は一九五八(昭和三三)年まで校舎として利用され、翌年に新校舎建築のために解体された。現在の住所は武蔵野市吉祥寺東町四丁目十二番二十号(地番は武蔵野町本田北三十番ノ九)で、武蔵野法政寮があったのは、現在の吉祥女子中学・高等学校の敷地の東側部分である。
国土地理院の空中写真で武蔵野法政寮を確認する。写真は撮影時期は未定だが、すでに寮の建物があるので、一九二八(昭和三)年から一九三六(昭和一一)年のものと思われる。この写真の建物が多い上部が吉祥寺四一番地の武蔵野法政寮で、下部が吉祥寺四二番地の日大工学部寮である。(図1)(39)
一九四一(昭和一六)年八月の空中写真では、吉祥寺四一番地で武蔵野法政寮として利用された建物が、すでに川崎市木月に移転した後なので、一部がなくなっている。(図2)(40)
一九四一(昭和一六)年四月の川崎市木月にあった予科の敷地では、上部に吉祥寺四一番地の武蔵野法政寮から移築した寮が見える。一番上の小さな建物の形状が、吉祥寺四一番地の中央にあった建物の形状と似ていることから、この建物も移築したものと思われる。(図3)(41)
法政大学HOSEIミュージアムの「法政大学史写真コレクション」所蔵品に「予科学生寮・寮祭風景」の写真がある。そこに映っている川崎市木月に移転した寮は、まさしく武蔵野法政寮の建物である。(図4)(42)
武蔵野法政寮の写真は、法政大学HOSEIミュージアムの「法政大学史写真コレクション」所蔵品あり、「法政大学法政寮」として残されている。(図5)(43) その説明文には、一九三四(昭和九)年撮影と記されている。
武蔵野市にあった予科寮としての「法政寮」。一九二〇年、大学令による認可を受け、正式に大学となった本学には学部への進学準備課程として予科が開講された。一九三六年に予科が木月校地(川崎市中原区)へ移転したのに伴い、法政寮も同地へ移転。(44)
この建物の端にある窓枠の飾りを確認すると、特徴な白い横線が見える。(図5 比較のため、○枠を示した)
一九四六(昭和二一)年九月の帝国第一高等女学校の写真(図6 比較のため、○枠を示した)を見ると、図5の写真の○枠と、図6の写真の○枠と同じ意匠になっている。図5の右側手前の建物が、図6の右端の建物にあたるので、武蔵野法政寮の建物が、戦後も残されて校舎として利用されていたことがわかる。
図5の写真は武蔵野法政寮の概観を示す、一九三四(昭和九)〜一九三六(昭和一一)年に撮影された貴重な記録である。
余談であるが、武蔵野法政寮があった建物は後に東京普通逓信講習所吉祥寺分室の寮として利用されるが、この逓信講習所は一九四〇(昭和一五)年に帝国美術学校があった南側の建物に開設された。この帝国美術学校の跡地には、一九四六(昭和二一)年に法政中学校が移転し、一九四八(昭和二三)年に法政大学第一中・高等学校となり、二〇〇七(平成一九)年に移転するまで法政大学が利用していた。
守屋荒美雄は母校の学生への支援として、それも、予科という若い学生のために、支援したいとの気持ちから、寮開設を企画したのであろう。理事に就任して間もない守屋荒美雄の提案であるが、大学側にとって予科の移転問題や隣地の購入問題など、財政が厳しい状況が続くいた中で、大学の財政負担が少ない計画は受け入れやすかったと思われる。それゆえ、理事会で提案してすぐさま承認されたのであろう。建物はその後の川崎市木月の法政寮として提供するなど、守屋荒美雄が設置した寮は、法政大学の学生に利用されていたことを、守屋荒美雄自身も喜んだに違いない。
五 守屋奨学資金
一九三七(昭和一二)年四月に法政大学では奨学金給与制度を創設することになった。『法政大学八十年史』の年表には奨学金制度と同時に、守屋荒美雄が奨学資金を寄附し、「守屋奨学金」が設立されたことが書かれている。
一九三七(昭和一二)
四 奨学資金給与制度実施
守屋荒美雄理事が同制度創設に当って私財一万円を寄付したため、守屋奨学資金と称す(45)
『守屋荒美雄伝』には、守屋荒美雄が逝去後の、一九三八(昭和一三)年五月に「故人の遺志により法政大学に金一万円也寄附。(46)」とあるが、これが追加の寄附なのか、前年度の誤記であるかは不明であるが、大学への寄附は、実際に行われた。
奨学資金を提供した理由について、明確な趣旨は残されていないが、守屋荒美雄の生育環境が影響しているのであろう。守屋荒美雄は幼少の頃、岡山県の高梁川が氾濫したため、生家を失い、満足な教育を受けられなかった。高等小学校卒業後は独学で勉強し、二十二歳で校長、さらに独学で検定試験を受験、文検にも挑戦した。高額な研究書は借りては書き写すことが多く、そのことで体調を崩すほどであった。研究書などの本を購入することは惜しみなく行っていたが、自分のためのみならず、自らのことを振り返り、向学心があるのに学資が乏しい学生への支援は惜しみなく行うことがあった。
帝国書院の社員であった小佐々伝は次のように述べている。
先生は各地の門下生の推薦に依る、気の毒な学生の御世話もなされた。その数は一ヶ年十五名、少ないのは十円位から多いものは五十円位の補助をさなされた。(略)
先生は四十年来、文検受験生の御指導や、中等教員転任、補充の御世話をなされた。とても普通人の出来る事ではないが、真に寝食を忘れて如何なる犠牲をもおいとひなく一年数千円の経費を投じて門下生のために奮闘された。(47)
守屋荒美雄から学資提供を受けた一人に、目白福音教会の桜木琴太郎がいる。桜木琴太郎は守屋荒美雄と面会した様子について、次のように述べている。
頗る苦闘困憊にありしが、我が一家にとり、実に天佑と申すべきことが齎された。其事は昭和三年の晩秋、私の遠縁に当たる朝鮮本山高等女学校長山口宇造氏より来状あり。
帝国書院々主守屋先生へお願ひしてあるから、拝眉の栄を得よとの吉報なりし。(略)
第二回目の配備にて、次男帝大学費御引受け下さつた。(略)
然し何も縁故もなく御助け下さつたのは実に守屋先生である。その有難さは筆舌に絶す。(略)
先生が或時の仰せに学資の事は心配に及ばぬ、私が存命なら必ず卒業まで見てやるとの御言葉。(48)
何人かの記録を見ると、学資の申し出があればすぐに応じるのではなく、必ずその学生と面談して、提供する金額を決めていたようである。学生の性格や向上心などの様子が、資金援助の額に関わっていた。この守屋荒美雄の性格について、桜木琴太郎は次のように述べている。
ここにオミツトしてはならぬ一事あり、そは先生御生来の御世話ずきである。故に来客中には青年のために地方中等学校奉職のお世話に関するお談話、各種議員選挙に一肩入れてのお友情、学資に困つてゐる学生をお世話するのが一ツのお楽しみであつて、現に数名世話してゐらるるとのお話は今に之を記憶せり(49)
学ぼうとする学生への支援として奨学金制度が設置されたのであれば、それは、守屋荒美雄が理事会で、自らが寄附金を申し出で、奨学金制度を提案したものとも考えられる。学生の学費の援助を個人的に面談して行ってきたが、奨学金制度として、面談しない不特定の学生への支援を行ったのは、法政大学という母校への愛情からとも考えられる。
この「守屋奨学資金」の運用は戦争で途絶え、戦後は運用されていない。
六 満州学生寮
国外学生の寮を設置する動きは、一九二三(大正一二)年頃にも構想があった。上林敬次郎(元朝鮮総督府咸鏡北道知事で後に法政大学理事)は国外学生のための法政寮設置の企画について、次のように述べている。
私は朝鮮を引き揚げて間もなく秋山雅之介博士と相談致して、法政大学当局と連絡を保ち、法政寮を作り、朝鮮人を収容して、これを指導しようといふ計画を立て、朝鮮人の父兄とも連絡を取り、思想の堅実なる者を収容する積りで、たまたま、総督府の警務局の人が上京して居つたので、その人に相談した所が。それは、吾々がやるから、あなた方のお世話にはならないとふ、そつけない挨拶であつたから、私は之を秋山博士に話して、その計画を中止したのであるが、(略)この融和機関としての、法政寮の計画を中止したことは、今日考へても、まことに遺憾に堪へないのである。(50)
この時に寮を接することはなかったが、一九三七(昭和一二)年になってから、法政大学は満州国からの留学生を受け入れる学生寮「満州学生寮」を用意することになった。
中華民国の留学生は、昭和時代になってとみに増加した。(略) これら留学生のために本学は特別な配慮を行った。昭和四年五月には中国人留学生のための日本語講座を週二回開講し、一一年四月には日本語学科を新設した。また翌十二年四月には吉祥寺四二番地に建坪七〇〇坪の法政大学満州学生寮を設置した。(51)
『法政大学百年史』の年表では一九三七(昭和一二)年九月開設になっているが、四月か九月かは不明である。
9 法政大学満州学生寮新設(府下吉祥寺四二番地)」(52)
『法政大学百年史』では「一二年には吉祥寺に三〇〇平方米の満州学生寮を設置」とあり、「建坪七〇〇坪」と相違があるが、詳細は未詳である。
吉祥寺四二番地の土地と建物は守屋荒美雄の所有であり、一九三四(昭和九)年に守屋荒美雄が用意した吉祥寺四一番地の「武蔵野法政寮」の南側にあたる。この南側は道を隔てていて、中央線の近くにあり、以前は日本大学の工学部寮として利用されたものであった。日本大学の工学部寮は、日本大学が所有していたのではなく、土地と建物は守屋荒美雄が所有し、管理していた。一九三七(昭和一二)年には日本大学の学生が利用する数も減ったため、空いた部屋があったので、満州学生寮としたのであろう。
守屋荒美雄が満州からの学生支援の構想は、すでに一九三四(昭和九)年には具体化されていた。小西真津一は守屋荒美雄の満州国への思いについて次のように述べている。
昭和九年六月の末頃に御手紙をいただきまして、(略) 実は今度満州国の留学生のために寄宿舎をたててやりたい、現在の西荻窪の建物を使用されれば猶結構だ。兎も角、一度君は松平駐英大使邸の高橋たか女史の紹介で丁士源公使に会って見てくれとの話でしたから、早速七月の暑い日中に打合せて麻布の公使館に丁公使を訪ねて、色々と満州国の留学生派遣について聞いてみましたが、丁公使の考へと守屋先生のご意見がやや異つてゐたので、そのままに話は中絶しましたが、その当時の話では、僕は満州国の将来については多大の関心を持つてゐるので、国家百年の大計を考へると、どうしても彼国人中の青少年層を日本化することに努めたい、そして王道楽土と口には云ふが真の日本の姿を見せるためには任で教育してみたい。これには多少の犠牲を払ってもよい。(53)
一九三四(昭和九)年にすでに、吉祥寺の寮を利用する計画があり、それが実現するまでには、留学生の数が増えるまで待つことになったのであろう。
守屋荒美雄の満州国への関心は、著書『人生地理』(帝国書院、一九三五(昭和一〇))の「緒言」に「昭和十年桜花ほほえむ新春 満州国皇帝陛下を迎え奉りつつ」とあることや、守屋荒美雄の長女繁子の夫、増田啓策(帝国書院社長)が満州国で中学の教諭をしていたことなどからも伺える。
これらを踏まえると、満州国から日本への留学生が増えてきたことへの対応として、守屋荒美雄が「満州国の留学のための寄宿舎」設立のために、所有していた寮の供与を理事会で申し出た可能性がある。それに国外留学生の寮を企図していた理事の上林敬次郎と、守屋荒美雄を信頼している総長の小山松吉は、満州学生寮の企画に賛成したのであろう。
建物を確認すると、国土地理院の一九四一(昭和一六)年八月の空中写真にある口の型をした建物である。(図6参照)(54)
この満州学生寮の入り口の写真が法政大学HOSEIミュージアムの「法政大学史写真コレクション」所蔵品にあり、「吉祥寺の満州学生寮」として残されている。(図7)(55)
この建物は、一九四五(昭和二〇)年頃、戦災で避難した人々が仮住まいし、その後、守屋荒美雄から遺産相続した長男の守屋美賀雄と次男の守屋美智雄が、東京都に売却した。そのまま一九五五(昭和三〇)年頃まで使用されて、その後、改築された。現在は、武蔵野市吉祥寺東町四丁目一一番にある東京都都市整備局の「吉祥寺東町四丁目アパート」になっている。
満州学生寮は、遠くから学びに来る学生を支援しようとした守屋荒美雄の思いが結実したものである。
七 法政中学校
(1)法政中学校の設置
法政中学校は法政大学の初めて附属中学として一九三六(昭和一一)年四月に開校した。この開校の責任者が守屋荒美雄であった。それまでは夜間の商業学校があったが、昼間部の中学校と昼間部の商業学校を設置することになり、中学校と商業学校をまとめて「中等部」と呼んで、開設の準備をした。
中等部の誕生にあたっては、大学に新設された企画部の部員 田村太郎、野島貞一郎、錦織重正の協力と、責任者であった守屋荒美雄理事の名を忘れることができない。中学校の初代校長には文学部の小山龍之輔教授が、商業学校の初代校長には経済学部の高木友三郎教授が就任した。
校舎は古く、教室は暗かった。その上大学と併置されていたことは、この中等部の生徒にとって必ずしもよい影響を与えなかった。大学生の自由な挙措態度の中から、とかく悪い方面ばかり見習いやすく、さらに指導されるような機会も多かった。しかし中等部の内部は一般には自由清新な校風をたもち、教員と生徒とのあいだには家族的な親和関係があったとさえ言えよう。素行の思わしくない生徒を教員が自宅に引きとって、生活をともにしながら全人間的な教育にあたったという実例も、一、二にとどまらなかったのである。
開校二年後の昭和一三年三月には、二階建て、建坪一二〇坪の中等部新校舎が完成し、一部分の生徒がこれを使用することができたし、同時に理科実験室も新設され、武道場も設けられた。(56)
宿願の法政中学校と法政大学商業学校(昼間部)が昭和一一年(一九三六)に大学の校内に開校された。両校の開設は守屋荒美雄理事の尽力によるところが大きかった。(57)
夜間商業学校は一九二四(大正一三)年に創設され、富士見町の大学校舎を使い、大学予科の教授も兼任していた。その頃から中学校設置の計画が出ていたが、校舎がないため、時期を待っていた。一九三六(昭和一一)年に大学予科校舎が一九三六(昭和一一)年一〇月に竣工し、そのあとの教室を利用することになった。一九三五(昭和一〇)年十二月十七日に法政大学理事小山松吉名義の中学校設立許可申請書が東京府知事経由で文部大臣に提出され、一九三六(昭和一一)年三月末に法政中学校と商業学校第一本科(甲種実業学校、五年制)の新設が認可された。
校舎の問題は解決に向かったが、教員採用の問題が立ちはだかり、守屋荒美雄はそれを処理していった。
資金の問題もさることながら−それは前述した「拡張」のための募金によってあるていどの見とおしはできている−、守屋理事がさらに大きな苦心を払ったのは短期間に必要数の教員を集めることであった。大学予科・学部教員の兼務がまず考えられるところではあったが、それは必ずしも簡単ではなかった。いきおい、教科書出版会社を経営する守屋の人脈に大きく依存せざるをえない。(58)
守屋荒美雄は教員の就職斡旋もしていたが、短期間では難しく、多くは大学の教員に頼るが、それも守屋荒美雄と関わりがある教員に打診し、苦難の結果、優秀な教員を揃えることが出来た。
そのほか講師陣にも、当時他校ではとうてい考えられないような人材を迎えることができた。(59)
これまでの守屋荒美雄の学校経営は、資金提供がほとんどで、学校経営は当事者に任せることが多かった。一九二五(大正一四)年に村上周三郎と関東商業学校を設立したときは、学校経営を村上周三郎にまかせていたが、村上周三郎が逝去により、守屋荒美雄が理事長として経営したことがあるが、一から学校を設置したことはなかった。法政中学校は守屋荒美雄が一から学校設置をする最初の学校であった。そのため、校舎はもちろん、教員採用にいたるまで綿密な計画を練っていた。
守屋荒美雄には優秀な教員を揃えることは、念頭にあった。それは、守屋荒美雄自身が獨逸学協会中学校で教員をしていた経験に起因している。一八九七(明治三〇)年九月に西小川町にあった獨逸学協会中学校に山上万次郎が紹介したものである。校長・大村仁太郎は獨逸学協会中学校の充実のため、高等師範、外語、学習院、陸軍学校から教師を招き、教師陣は地理・守屋荒美雄、国語・芳賀矢一・志田義秀・林敏介、歴史・津田左右吉、音楽・大村恕三郎・東儀鉄笛・東儀俊竜、生物・丘浅次郎、獨逸語・三並良・高田善次郎・小笠原稔・谷口秀太郎・武内大造・国吉直蔵、修身・山口小太郎・高島平三郎と、当時の優秀な教員を集めた。このような環境の中、守屋荒美雄は教頭の位置として授業に校務に勤しんだ。ここから、優れた教員集団による学校運営が重要であることを実感し、質の高い教員を集める考えが芽生えたのである。
守屋荒美雄は開校後に、全校生徒を前に訓示を行った。この時の写真が残されているが、訓示の内容は残念ながら残されてない。現存すれば、守屋荒美雄が願っていた中学校の設置の意図も判明したかもしれない。(図8)(60)
(2)法政中学校の教員
法政中学校設置には、校舎、教員、カリキュラム、募集などさまざまな準備が必要な中、特に守屋荒美雄が重点を置いたのは、教員採用であった。初代校長は、理事会での決定なので、守屋荒美雄が任命ではなかった。本来なら、設置に尽力した企画部の田村太郎、野島貞一郎、錦織重正のいずれかが校長になると思われたが、企画部と理事以外から選出され、中学校の初代校長には文学部の小山龍之輔が、商業学校校長には経済学部の高木友三郎教授が就任した。いずれも守屋荒美雄とは維持員の時に面識があるので、守屋荒美雄の学校設置の状況は理解した上での就任であった。
守屋荒美雄が関わった教員は、『法政一中・高五〇年史』、『人間の創造 法政一中・高 五〇年の歩み』に詳しい。一九三六(昭和一一)年開校時の教員組織は次の通り(61)。
修身 小山龍之輔 法政大学
国語 滝澤三郎 法政大学
国語 野島貞一郎 法政大学
漢文 辻 一喜 法政大学
文法 熊谷 孝 法政大学
習字 内藤秀因
歴史・地理 砂崎実蔵
外国語 錦織重正 法政大学
外国語 廣野藤吉
外国語 曽根重雄 法政大学
数学 土居音三郎
理科 井上 勇
図画・工作 武田儀助
音楽 石黒碩二郎
体操 関根孝治郎
教練 矢野浩一
剣道 平田四郎
柔道 黒田嘉博
開校以後の中から、関わりがある教員のうち、一部について整理する。(順不同)
(ア)土居音三郎 数学
土居音三郎(一八八五(明治一八)〜一九八六(昭和六一))は、一九〇六(明治三九)に高知県師範学校を卒業、一九〇八(明治四一)年に師範学校・中学校の教員免許を取得、一九〇九(明治四二)年に高知県長岡郡奈路尋常小学校校長、一九一〇(明治四三)年に新潟師範学校、一九一三(大正二)年に鹿児島県立第二鹿児島中学校、一九一九(大正八)年に宮崎県都城中学校、一九二〇(大正九)年に鹿児島県立志布志中学校、一九二一(大正一〇)年に長崎県の私立海星中学校の教壇に立った。法政中学校には開校時に就任した。
守屋荒美雄と土居音三郎はおなじカトリックであることや教育觀が一致し、意気投合したのであろう。守屋荒美雄は一九一六(大正五)年に暁星中学校の教員として勤務し、親友となった小野正美が暁星中学校教諭にいたのと、五男の守屋須美雄が一九三四(昭和九)年に暁星中学校に入学していたので、土居音三郎を暁星中学校に紹介したと思われる。その上、帝国書院の仕事も斡旋して生活を支えていた。
土居先生は昭和一〇年、軍事教練に非協力とみなされて海星中学をやめざるをえなくなった。一時同じカトリック系の暁星中学で教鞭をとるかたわら、帝国書院の編集を手伝うことになった。帝国書院の社長守屋荒美雄氏は法政大学の理事でもあり、教育事業にきわめて大きな関心を持っていた。守屋氏はたちまち土居先生と意気投合し、志をともにする間柄になってしまった。そのころ、土居先生は牛込区天神町一四番地に居をかまえ、そのすぐ裏に守屋先生宅があり、同憂の士は各自の宅を交互に訪問しあい、教育談に花を咲かせていた。
昭和一一年、法政中学校が設立されるや、守屋先生に口説かれるまでもなく、土居先生は、自らの教育活動の最後の理想郷として法政に¨殉教”(教育に殉ずる意)の道をみつけ出されたのである。(62)
法政中学校時代の土居音三郎は、『人間の創造 法政一中・高 五〇年の歩み』(63)に詳しいので、ここでは割愛するが、守屋荒美雄が意気投合した土居音三郎の生き様がまとめられている。
(イ)岩瀬好一 校長
岩瀬好一は大正初期に岡山県阿智郡の新見町立新見実科高等女学校、岡山県小田郡の笠岡町立高等女学校の教諭として教壇に立ち、一九二四(大正一三)年に笠岡町立高等女学校の校長に就任する。一九三一(昭和六)年頃に岡山県の高梁中学校の校長に、一九三三(昭和八)年に岡山県立津山高等女学校の校長に就任して一九三六(昭和一一)年に同校を退任した。一九三七(昭和一二)年五月一四日に病気で退任した小山龍之輔の後、法政中学校の校長に就任する。翌、一九三八(昭和一三)九月二八日に法政中学校の校長を退任した。
守屋荒美雄とは、岡山県の高梁中学校時代に知り合った。法政中学校を退任した後は、一九三九(昭和一四)年に守屋荒美雄が理事長をしていた関東商業学校(現在の関東第一高等学校)の副校長、一九四五(昭和二〇)年四月から帝国第一工業学校(現在の関東第一高等学校)の校長に就任し、一九五一(昭和二六)年三月に退任している。その間、一九四七(昭和二二)年に守屋荒美雄が設立した帝国教育学園(現在の吉祥女子中学・高等学校)の理事に就任しているので、守屋荒美雄との関わりは深かったが、詳細についての資料は未見である。
(ウ)錦織重正 英語
錦織重正は法政中学校設立のために大学に新設された企画部の部員の一人で、守屋荒美雄の下で設立に尽力した。どのような学校を作るかは、企画部で話し合い、共有して開校を迎えた。一九三六(昭和一一)年の開校時から英語を受け持ち、中学主事、高校主事を経て一九四七(昭和二二)年に校長に就任、一九五五(昭和三〇)年に急逝するまで法政中学校、法政大学第一中・高等学校に大いに貢献した。
草創期の教員の中に後に校長となりし殉職した錦織重正がいる。彼は守屋理事のもとで中等部の設立に尽力し、戦後は中学ついで高校の主事を経て校長となり、文字通り生涯を一中・高校に捧げた。(64)
開校当時の担任は次のような記録がある。
初年度の一二七名はABC三学級で、組主任はA組曽根重雄、B組錦織重正、C組野島貞一郎で、いずれも企画部員であった。(65)
守屋荒美雄の下で設立に尽力した三名が担任として、開校時の法政中学校を支えていた。錦織重正は法政中学校に多大な貢献があり、それらは、『法政一中・高五〇年史』、『人間の創造 法政一中・高 五〇年の歩み』に詳述されている。
(エ)吉川(守屋)美都雄 歴史
吉川美都雄(一九一五(大正四)〜一九六六(昭和四一))は守屋荒美雄の四男で、帝国大学史学科を卒業後、東洋大学教授を経て、一九五一(昭和二六)に大阪大学助教授、一九五七(昭和三二)年に同大学教授となった。一時期、吉川近一(守屋荒美雄の妹「以屋」の夫)の養子となったため、吉川姓となったが、後に守屋姓に戻っている。
吉川美都雄は一九三八(昭和一三)年に法政中学校で歴史を担当し、生徒の主体的な学習指導をしていた。
作文(熊谷孝)で書評や新聞批判などの評論を課題にし、歴史(吉川美都雄)が自由なテーマで論文を書かせるなど、高い水準で学年に対する生徒の主体的なアプローチを指導している。(66)
守屋美都雄の大学時代のことは、内田智雄「守屋教授を悼む」『法制史研究』(法制史学会、一九六七(昭和四二))に詳しい。
(オ)中尾和人 音楽
中尾和人は一九三八(昭和一三)年に武蔵野音楽学校を卒業、一九四一(昭和一六)年に武蔵野音楽学校研究科声楽部を終了。声楽の専門であり、後に武蔵野音楽大学の講師になり、『うたい方のヒント』(67)などの声楽の著書を出している。中尾和人は一九四〇(昭和一五)年に法政中学校に就任した。守屋荒美雄が逝去した後である。
昭和一五年(一九四〇)若い音楽の教師中尾和人が就任した。中尾は武蔵野音大の創立者福井直秋から親しく指導を受けたテナー歌手であり、(略)(68)
この中尾和人が就任するきっかけは、守屋荒美雄にあった。守屋荒美雄は生前、武蔵野音楽学校の福井直秋に音楽の教員派遣を依頼していた。守屋荒美雄と福井直秋の関係は一九三二(昭和七)に始まる。武蔵野音楽学校が専門学校に変更すべく設立認可を申請したところ、それまで音楽の専門学校がなかったため、財団法人の基本金一〇万円の厳しい設置条件が出された。そこで、守屋荒美雄に資金提供を頼み、三万五千円を出資した。これがもとで、守屋荒美雄は武蔵野音楽学校の理事となった。当時のことを福井直秋は次のように述べている。
さて専門学校にするためには一〇万円の基本金が要る。その調達を帝国書院の社長守屋荒美雄氏に依頼したら内三万五千円は何とかしよう。また三万五千円を守屋が出すなら、俺も一肌ぬごうという刀江書院の社長尾高豊作氏の話で、あと三万円は完成年度までにできればよい。(中略) そして残りの三万円は完成年度に元古河電工の専務荻野元太郎氏に頼んで漸く調達することができた。 思えば当時の一〇万円といえば仲々容易ならぬ大金ではあった。(中略) 今でも尚当時の一〇万円の工面はわたくしの身にしみてこたえている。」(69)
当時の武蔵野音楽学校は卒業後に演奏家なることが多く、学校教員になる者は少なかった。それゆえ、法政中学校設立の時に守屋荒美雄が福井直秋に相談し、指導する時間と本人の志望とが合うまでの時間がかかったのであろう。福井直秋は守屋荒美雄のため中尾和人に法政中学校をすすめたと思われる。
(カ)砂崎実蔵 歴史・地理
砂崎実蔵は一九〇二(明治三五)年に検定で師範・中学の教員免許を取得、長野県師範学校、静岡県立浜松中学校、長崎県立大村高等女学校、長崎県立島原高等女学校を経て、守屋荒美雄の招きにより一九三六(昭和一一)年に法政中学校教諭に就任した。翌、一九三七(昭和一二)年に退任して、守屋荒美雄が設立した帝国商業女学校の地理・歴史教諭に就任している。地誌に詳しく教え方に定評があった。守屋荒美雄の関わりはほとんど残されていないが、守屋荒美雄の没後、「守屋君追悼会」の発起人会(十五名の会)の一員であったことからも、長い付き合いがあったと思われる。
八 法政大学関係者との関わり
守屋荒美雄と法政大学関係者との関わりについて、『守屋荒美雄伝』に記載の追悼文を元に整理する。(順不同)
(1)小山松吉
小山松吉(一八六九(明治二)〜一九四八(昭和二三))は一八九二(明治二五)年に獨逸学協会学校を卒業、一九二四(大正一三)年に検事総長、一九三二(昭和七)年に司法大臣に就任、一九三四(昭和九)年に貴族院勅選議員に勅任された。一九三四(昭和九)年、急逝した水町袈裟六に替わり法政大学総長に就任。一九三六(昭和一一)年には獨逸学協会中学校の校長に就任した。
守屋荒美雄との関わりは獨逸学協会学校である。一八八三(明治一六)年に設立した獨逸学協会学校は神田小川町に校舎があった。守屋荒美雄は一八九七(明治三〇)〜一九一〇(明治四三)年まで獨逸学協会学校の教員であり、退職後も同窓会にはよく参加していた。小山松吉は一八九二(明治二五)年に獨逸学協会学校を卒業した卒業生で、卒業後の同窓会で守屋荒美雄と対面したと思われる。
本格的に関わりを持つのは、一九三五(昭和一〇)年に獨逸学協会学校の理事に守屋荒美雄・小山松吉ともに就任した時からである。
五月十六日 新寄附行為にもとづき、商議員制を廃止、新たに小山松吉・松本安正・守屋荒美雄・額田豊・司馬亨太郎(校長)の五氏理事に就任。
六月一日 旧校舎校長室に第一回理事会を開き、互選の結果小山氏理事長に推さる。(70)
翌年の一九三六(昭和一一)年に獨逸学協会学校校長の司馬亨太郎が逝去すると、「司馬亨太郎先生追慕記念会」発起人として小山松吉・守屋荒美雄らが選出された。次期校長として理事は小山松吉に校長を打診したが、固辞された。校長不在では学校が成り立たないので、小山松吉を説得して校長事務取扱の就任の許諾を得た。この時、小山松吉に校長を打診したのが、一八九九(明治三二)年に獨逸学協会学校を卒業した額田豊(後の獨逸学協会学校校長)と守屋荒美雄の二名であった。
一九三六(昭和一一)年、理事会は小山松吉を校長就任を懇請したが、法政大学総長の任にあったので固辞された。(71)
一九三四(昭和九)年に守屋荒美雄が法政大学の理事になる時に、小山松吉は法政大学の総長に就任しているので、法政大学での関わりがあったからこそ、獨逸学協会学校での関わりも深くなったと考えられる。
守屋荒美雄は一九三八(昭和一三)年二月八日に逝去し、二月一二日に神田三崎町の天主公教会にて葬儀が行われた。葬儀委員長は衆議院副議長の岡田忠彦で、霊柩の左右には団体・個人の造花が飾られた。
(向かって右側)愛国婦人会・法政大学・関東商業学校・帝国第一高等女学校・帝国商業女学校・獨逸学協会中学校
(向かって左側)平沼騏一郎・秋田清・小山松吉・岡田忠彦・山岡萬之助(72)
団体の愛国婦人会は下田歌子の会で、廃校となる愛国女学校を守屋荒美雄が引き継いで帝国商業女学校として再出発した経緯がある。法政大学と獨逸学協会中学校は理事、関東商業学校・帝国第一高等女学校・帝国商業女学校は守屋荒美雄が設置した学校である。
平沼騏一郎は守屋荒美雄が慕った同郷岡山県出身で当時枢密院議長、秋田清は当時衆議院議員、岡田忠彦は同郷岡山県出身で当時衆議院議員で関東商業学校校長、山岡萬之助は当時貴族院議員で守屋荒美雄が理事をしていた日本大学総裁である。
この葬儀で小山松吉は法政大学総長としてではなく、財団法人獨逸学協会理事長として弔辞を述べている。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に小山松吉は次の追悼文を寄せている。
私は多年君と親交あり且近年君と共に法政大学に於て理事の職に当り、財団法人獨逸学協会に於ても亦同じく理事として共に従事したから君の性格をよく知つて居るのである。私の見るところでは君は資性温厚、身を持する極めて質素、而も業務を執るに当りては熱心にして勤勉なる人であつた。殊に育英事業に赤誠を捧げたことは感心すべきものがある。君が幾多の中学校を経営し、又幾多の学校に資金を提供してゐるのは、一身を教育事業に貢献せんとする君の素志の発露に外ならぬ。君の隠れたる徳として敬服すべきは、私財を投じて幾多の教員を養成し、又は中等学校教員の就職などを懇切に斡旋せられたことである。(略)
嗚呼君は世人の所謂好運の人ではない。又成金者流でも固よりない。勤勉と努力とに依りて成功したる立志伝中の人である。(73)
守屋荒美雄と小山松吉は同じ時期に獨逸学協会理事と法政大学理事であったため、よき理解者同士であり、守屋荒美雄が法政大学理事として行った事業をよく理解し、支援したのが小山松吉であった。
(2)成毛基雄
成毛基雄(一八七四(明治七)〜一九五〇(昭和二五))は一九〇一(明治三四)年一一月に和仏法律学校法律科を卒業している。卒業は守屋荒美雄が四ヶ月早いが、共に学んだ仲である。法政大学教授の時に維持員になり守屋荒美雄と面会があった。奈良県知事、内閣拓殖局長を経て、富士見高等女学校校長、法政大学理事となった。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に成毛基雄は次の追悼文を寄せている。
学生時代の君は、世話好きとで評判であった。口から先に生まれた様な法律学生等も、君の意見には傾聴することが多かつたのである。後年よく人の世話をせられたが、これは既に象牙の塔の中で萌してい居つたのである。(略)
母校の事に就ては、卒業後君は終始何かの役員に選ばれ、終には常務理事にまでなつた。私も同様よく役を割付けられたので、君とは会合の機会が最も多く、又よく指導を得ることが出来たのである。法政大学に於ける功績は、他の者から中述ぶることと思ふから、私はここに一切これを省くが、兎に角永遠に輝くべき多くの偉業が残されたのである。 君の政治に関する意見は、私と一致することが多かつたから、夜も時の移るを忘れて相語つた事が度々であつた。(略) 私は後年教育に関係することなつた時、第一に君を訪ねて教を乞うたのであるが、其時の適切なる指導は今も忘れないのである。君の私に対する友情は、四十年間終始一貫せられた。(74)
成毛基雄によれば、守屋荒美雄の世話好きはすでに学生時代に萌芽し、学生時代の仲間を大切にしていたことがわかる。
(3)高木友三郎
高木友三郎(一八八七(明治二〇)〜一九七四(昭和四九))は法政大学教授で、守屋荒美雄との関わりは、法政大学の維持員会で同席した頃からで、その後、守屋荒美雄が設置に奔走した法政商業学校(昼間部)の校長に就任した。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に高木友三郎は次の追悼文を寄せている。
守屋先生は法政大学理事として、殊に法政中間商業学校の発議且つ創設者として、私は其下に商業学校校長をやる殊になつたので頗る因縁深いわけである。
しかし、私は其前から先生が法政大学の校友として法政で有力な人であつたので、既に能く熟知し、その為に私は帝国書院から商業学校用の「商品学」教科書を出版してゐるのである。(略)
三、法政に於ける先生の偉業
法政大学にしても既述の商業学校と中学校は次第に発展して、入学者の多いために選抜試験も年々淘汰率が多くなる盛況を呈しつつあり、これ全く先生の
一、母校に対する犠牲的精神 二、先見の明 三、勇断力の賜に外ならない。
先生無ければ法政の中間中等部創設は全く見られなかつたわけである。之だけでも法政の理事として大きな功績があり、進んで教育界にも大きな貢献をも残したわけである。
吾々一同はこの先生の恩に対し、厚く感謝の意を表すべく、十三年七月二十日、中等部教職員一同は多摩にある先生の御墓に参り、その冥福を祈り併て守屋家遺族に感謝の意を表した次第である。(略)
自己の信ずる所に進んで、あれだけ成功した守屋先生は何と云つても凡人では出来ない偉らさを持つ。(75)
守屋荒美雄は法政中学校設立の後、校内の役職はならなかったのであるが、教職員一同がカトリック府中墓地に墓参するのは、教職員全員が守屋荒美雄との関わりがあったことを示している。この追悼文で高木友三郎は的確に守屋荒美雄の業績を分析し、「一、母校に対する犠牲的精神 二、先見の明 三、勇断力の賜」にまとめている。これらは、武蔵野法政寮、満州学生寮、奨学資金、法政中学校の事業に共通する、守屋荒美雄の生き方そのものであると言えよう。
(4)曽根重雄
曽根重雄は法政中学校開設の企画部員で、守屋荒美雄の下で開設に尽力した。開校時は英語を担当し、担任にもなっていた。後に、法政大学の英語を担当した。
初年度の一二七名はABC三学級で、組主任はA組曽根重雄、B組錦織重正、C組野島貞一郎で、いずれも企画部員であった。(76)
守屋荒美雄と曽根重雄の関係は、一九三二(昭和七)年にはすでにあったが、契機については未見である。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に曽根重雄は次の追悼文を寄せている。
恰度昭和七年五月十二、三日頃の夜でした。先生とともに、或る料亭で夕食を取りながら、先づ僕から、実業を発展さすには如何なる事項が必要かと、問へば、先生曰く、昔の人の伝え通り、口で言ふ事の半分の仕事が出来たなら、その人の実業は成功する、所が世の中の人は、口で言ふ十分の一の実行さへし得ないのだ。斯様な事では決して何一つ形づけることも不可能であると言はれた。(略)
先生の御逝去なされる一、二年前と云ふものは法政大学中等部設立に対しても右腕左腕の如く助力してきましたので、先生が逝去された時位淋しく感じたことはなかつた。法政大学理事当時の先生の動きたるや、実に口で云ふ殊の半分処ではない、十の物は十五に拡張し、政治家、実業家、又あらゆる教育界の人々に接し、殊に教育界方面に於ては数十万の富を投資し斯業の発展を喜び居られたる先生、斯る偉大なる人、又総てに於て野人とも言ふべく、並びに立志伝中の大先生として敬服すべき人である(77)
曽根重雄は守屋荒美雄逝去後も、守屋家とのつながりがあり、一九三八(昭和一三)年に設立した旭航空部品株式会社(群馬県新田郡尾島町亀岡)の監事を引き受けている。この会社の目的は「航空機材及部分品製造加工販売」で、資本金一八万円、社長は守屋荒美雄の三男守屋紀美雄、取締役は鈴木武治・佐藤温・田中隆一、監査は守屋荒美雄の次男守屋美智雄、曽根重雄であった。
曽根重雄は守屋荒美雄の事業への考え方や、法政大学中学校開設までの企画部の会議で守屋荒美雄の教育方針などを理解し、開校後もその教育方針を受け継いで実践したと思われる。
(5)井本健作
井本健作(一八八三(明治一六)〜一九六四(昭和三九))は、小説家青木健作。一九二〇(大正九)年野上豊一郎の推薦で、法政大学教授に就任。守屋荒美雄との関わりは一九一九(大正八)年頃から始まり、法政大学の維持員、法政騒動の時の面会など、関わりは続いていた。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に井本健作は次の追悼文を寄せている。
大正六、七年の頃、経済界の大変動の為に、物価の急騰を招き、俸給生活者は殊に脅威を感じたのです。(略)
教員の有志が発起して私立中等学校教員大会を大正七年十二月に開催して、生活改善の悲壮なる叫びをあげました。それから翌年六月には向上会といふ団体が結成されて、種々の方面に活溌な運動を開始しました。その結果教員の俸給は逓増され、東京府は補給金を交付することになり、著しく教員の生活は向上したのです。
その向上会に、ある時会員外の人から突然若干の寄附金が届けられたのです。それは守屋荒美雄氏でありました。私が氏の名を知ったのはその時が初めてでした。(略)
その後向上会は氏を賛同員に推薦したところ、氏は快諾して爾来直接間接に向上会の事業を援助されました。後には顧問としてよく会にも出席されました。私は数年前から法政大学関係で氏に色々交渉を持つやうになつたのですが、氏に会ふ度に向上会のことを思ひ出して、なつかしく感ずるのでありました。(78)
先に取り上げた法政騒動の中で、井本健作は日記に守屋荒美雄との面会の件を記しているが、すでによく知っている人物であった。
(6)為光直経
為光直経は法政大学教授で、法政大学行進曲「名大いなれ法政」を作詞した。守屋荒美雄との関わりの契機は未見である。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に為光直経は次の追悼文を寄せている。
守屋氏が初めて人と対面せられる時には、先づ対手の顔をじつと視て、其の精神の奥底までも洞察せられんとする癖があつた。而して、一旦信用すべき人物であるとの印象をうけるならば、何所までも其の面倒を見られたものである。然かも、極めて大なる包容力をもつてゐられた氏は、苟くも一芸一能に達せる人出、信用すべき性格をもつてゐるものとは、常に親しく交を結び、これを指導し、これを奨励するに吝でなかつたばかりでなく、友人や後進が、一生の浮沈に関するやうな重大な事ある場合には、真に肉親も及ばざる愛を以て、精神的にも、物質的にも、これを援助せられたのである。(略)
守屋氏は熟慮断行の人であった。其の事業を経営せられるに当たつて、真に快刀を以て乱麻を断つの概があり、凡人の到底企て及ぶことのできないイキがあつた。然ればこそ、図書の出版に、学校の経営に、吾等が今日見るが如き、大なる足跡をのこされたのである。(79)
為光直経は守屋荒美雄の行動を詳しく観察していて、相手を「洞察」し、「信用すべき」であるとはんだんすれば、「何所まで」も「面倒を見」た。それは「精神的にも、物質的にも」援助していたのである。経営については「熟慮断行」と分析しているが、これは守屋荒美雄が法政大学で行った事業にも言えることであろう。
(7)野口保市郎
野口保市郎(一八八三(明治一六)〜一九五二(昭和二七))は地理学者で、一九二一(大正一〇)年に法政大学教授に就任した。
守屋荒美雄と野口保市郎の関わりは、一九一六(大正五)年に松本重彦(一八八七(明治二〇)〜一九六九(昭和四四))と守屋荒美雄の自宅に伺った時からである。その後も、西洋史学者の内藤智秀(一八八六(明治一九)〜一九八四(昭和五九))に伴われて、守屋荒美雄の自宅に伺っている。野口保市郎は一九二四(大正一三)年に守屋荒美雄が創刊した雑誌『地理学研究』の創刊号に、論説「地理学の見方について」を発表している。この号には内藤智秀や藤原音松も寄稿している。藤原音松とは一九三七(昭和一二)年に高木友三郎と一緒に守屋荒美雄の平塚の別荘を訪問している。野口保市郎は高木友三郎と藤原音松と親しい仲であった。藤原音松は成蹊高等学校(後に成蹊大学)教授で、一九一八(大正七)頃から野口保市郎と児玉九十(明星中学校校長、学校法人明星学苑創立者)とで守屋荒美雄の勉強会に参加していた。藤原音松は守屋荒美雄を支えるべく、雑誌『地理学研究』の編集担当をしたり、守屋荒美雄逝去後は『守屋荒美雄伝』の編集をしたり、守屋荒美雄が創設した帝国第一高等女学校の理事を引き受けたりした。野口保市郎と藤原音松は地理学における守屋荒美雄の愛弟子のような存在であった。
守屋荒美雄の没後に刊行された『守屋荒美雄伝』に野口保市郎は次の追悼文を寄せている。
守屋先生と僕は永い間の親しい間柄である。僕に対しては色々と世話をして呉れた。その上自分が後年地理を研究する種播きをして呉れて、地理学研究の指導までして戴いたから、僕は常に守屋先生を尊敬してゐたのである。
先生に初めてお目にかかったのは大正五年頃と思ふ。(略)
大正六年に成蹊実業専門学校で、自分が初めて商業地理の講義をするようになつて、守屋先生に大なる激励を受けた。五年ばかり過ぎて、法政大学が新たに大学令によつて新大学の組織になつて、学部と専門部と予科とで自分が地理の講義をするやうになつて、守屋先生も大変喜ばれた。(略)先生のお宅は飯田町から牛込の揚場町に移られたから、学校の帰りにお邪魔したことも度々であつた。(略)
最も先生と会見の機会の多くなつたのは、先生が法政大学の理事として学校に来られるやうになつてからのことである。学校の用事で色々とお世話になつたり、学生の就職のことで御尽力を仰いだりした。(80)
野口保市郎は守屋荒美雄によって地理学研究について学び、自宅に伺い、多くの教えを得た、いわば教え子として世話を受けた一人である。
(8)竹内賀久治
竹内賀久治(一八七五(明治八)〜一九四六(昭和二一))は弁護士で、一九三七(昭和一二)年に法政大学理事に、一九四二(昭和一七)年に法政大学学長、翌年に法政大学総長に就任している。一九三三(昭和八)年に「法政騒動」で調停役をしていた。守屋荒美雄と竹内賀久治の関係については、詳細は未詳だが、いくつかの関わりの場面があるので、ある程度の仲と思われる。
守屋荒美雄は一八七二(明治五)年、岡山県浅口郡西原村(現在の倉敷市西阿知)生まれ、竹内賀久治は一八七五(明治八)年、岡山県窪屋郡白楽市村(現在の倉敷市)生まれと年齢も近い。守屋荒美雄は和仏法律学校を一九〇一(明治三四)年に卒業し、竹内賀久治は一九〇〇(明治三三)年に和仏法律学校に入学、一九〇七(明治四〇)年に法政大学を卒業している。和仏法律学校時代に接触の機会があったと思われる。その後、竹内賀久治は一九三一(昭和六)年に法政大学の維持員に新任され、翌年一九三二(昭和七)年に守屋荒美雄が維持員になるので、ここで再び、接触の機会を持つことになる。法政大学の理事としては、守屋荒美雄は一九三四(昭和九)年に、竹内賀久治は一九三七(昭和一二)年に就任し、理事会で顔を合わせている。そして武蔵野法政寮でも守屋荒美雄は寮長で、竹内賀久治は顧問の関係になっている。
二人の関係については、岡山県出身という点で共通している。二人とも、岡山出身の平沼騏一郎に私淑し、一九三四(昭和九)年には平沼騏一郎が国本社講演会に出席するときに、守屋荒美雄と竹内賀久治は同行して岡山に向かっている。
九月、岡山市に於ける国本社講演会に列席のため平沼男爵・竹内賀久治氏とともに西下。(81)
国本社は一九二一(大正一〇)年に設立した国粋主義の政治活動団体で、会長は平沼騏一郎、専務理事に竹内賀久治、理事に小山松吉、荒木貞夫がいた。平沼騏一郎と竹内賀久治の招きで守屋荒美雄は同行したと思われる。守屋荒美雄は平沼騏一郎と関係は深く、守屋荒美雄氏が没後に刊行された『守屋荒美雄伝』の題字、守屋荒美雄の墓碑銘は平沼騏一郎が揮毫している。
ただ、守屋荒美雄は亡妻の父である外松謙の影響によりカトリック教に改宗し、敬虔な信者であったことから、国本社との関わりは深くないと思われる。『守屋荒美雄伝』と『竹内賀久治伝』はお互いの名は一箇所にしかなく、両名の親密についての資料は未見である。
九 法政大学との関係
これまで、守屋荒美雄と法政大学との関わりについて次の点で資料を元に整理した。
一 和仏法律学校
二 法政大学維持員会・理事会
三 法政騒動
四 武蔵野法政寮
五 守屋奨学資金
六 満州学生寮
七 法政中学校
八 法政大学関係者
守屋荒美雄と法政大学との関係を年表で整理したものが、次の通りである。
一八七二(明治 五) |
〇歳 |
五月 |
深津県浅口郡西阿知村に生まれる (現岡山県倉敷市) |
一八九六(明治二九) |
二四歳 |
五月 |
上京 |
一八九七(明治三〇) |
二五歳 |
九月 |
獨逸学協会学校教諭に就任 |
一八九八(明治三一) |
二六歳 |
六月 |
守屋荒三から守屋荒美雄と改名 |
一九〇一(明治三四) |
二九歳 |
七月 |
和仏法律学校卒業(第十七回生) |
一九〇二(明治三五) |
三〇歳 |
四月 |
和仏法律学校の校友春季総会に出席 |
一九〇六(明治三六) |
三一歳 |
八月 |
(和仏法律学校は法政大学に改名) |
一九〇七(明治四〇) |
三五歳 |
一〇月 |
『法令上より観察したる小学校教員』刊 |
一九一四(大正 三) |
四二歳 |
一一月 |
『動的世界大地理』刊 |
一九一七(大正 六) |
四五歳 |
九月 |
帝国書院創設 |
一九二五(大正一四) |
五三歳 |
四月 |
関東商業学校開校 |
一九二八(昭和 三) |
五六歳 |
一二月 |
小美濃半右衛門から吉祥寺の土地を購入 |
一九三二(昭和 七)
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六〇歳
|
六月
一二月 |
校債募集委員会に就任
維持員に就任 |
一九三四(昭和 九)
|
六二歳
|
七月
九月 |
法政大学理事に就任
武蔵野法政寮開設 |
一九三五(昭和一〇) |
六三歳 |
一二月 |
法政中学校設立申請 |
一九三六(昭和一一)
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六四歳
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四月
九月 |
法政中学校開校
(法政大学予科が川崎市に移転) |
一九三七(昭和一二)
|
六五歳
|
四月
|
守屋奨学資金設立
満州国学生寮開設 |
一九三八(昭和一三)
|
六六歳
|
二月
四月
|
逝去
帝国第一高等女学校開校
|
守屋荒美雄が理事時代に遂行した事業は、高木友三郎が分析した「一、母校に対する犠牲的精神 二、先見の明 三、勇断力の賜」によって実現できた。そこには母校に対しての支援、そして学ぶ学生への支援をする意識から、寮や奨学資金、中学校設立へと突き進んだのであろう。特に、寮、奨学金はともに学生の直接関わる援助である。それまでは支援する相手と面会してから判断していたが、法政大学理事時代では守屋荒美雄が面会に及ばない学生が利用する寮、同じく奨学金と対象範囲を拡張したのも、後輩である法政大学の学生を相手にするという、愛校心の表れと考える事ができる。
特に、法政中学校設立は守屋荒美雄にとって大きな経験となった。一九三六(昭和一一)年に法政中学校が開校し、一九三七(昭和一二)年に守屋荒美雄は自らの学校経営に乗り出して帝国教育学園の設置を申請する。それまでは学校への出資という形で支援してきたが、法政中学校では施設・設備・教員など学校設立のさまざまな事に取り組み、作りあげる体験を得た。その結果、自ら学校を作り出すという意欲が強くなり、私財一〇〇万円を投じて帝国教育学園を設立することになった。その最初の学校である帝国第一高等女学校(現 吉祥女子中学・高等学校)の設立のため、校地の選定と買収、校舎の設計と建築、役員の依頼、教員の採用、生徒募集へとこれまで以上の動きを見せるのである。それも、法政大学理事、日本大学理事、武蔵野音楽学校理事、関東商業学校理事、帝国書院監査役、そして数多の教科書執筆の多忙な中に、新たな取り組むに進むことからも、法政中学校設立は大きな転換点であった。
守屋荒美雄にとって法政大学は、母校であり、学生を支える、学生の資質を伸ばすべく環境を整備するとを実現し、そして、学校経営についてより深く学ぶ事が出来た大切な場所であった。
[注]
(1)守屋荒美雄記念会『守屋荒美雄伝』(守屋荒美雄記念会、一九四〇(昭和一五)) 五七頁
(2)法政大学校友名鑑刊行会編『法政大学校友名鑑』(法政大学校友名鑑刊行会、一九四一(昭和一六))には「明治三四年七月 和仏法律学校法律科卒業、守屋荒美雄(岡山)」とある(一三頁)。また、猪野三郎編『現代人事調査録』(帝国秘密探偵社、一九二五(大正一四))には、「三十四年法政大学法律科を卒業す」と説明されている。(四二頁)
(3)法政大学百年史編纂委員会資料部会編『法政大学史資料集 第2集』(法政大学、一九七九(昭和五四))一一五頁
(4)法政大学百年史編纂委員会資料部会編『法政大学史資料集 第3集』(法政大学、一九七九(昭和五四))八九頁
(5)(4)に同じ。九四頁
(6)法政大学編『法政大学八十年史』(法政大学、一九六一(昭和三六))七五七頁
(7)法政大学大学史資料委員会資料部会編『法政大学史資料集 第13集』(法政大学、一九九〇(平成二))二二五頁以降
(8)(7)に同じ。二二九〜二九〇頁
(9)この時に野口保市郎が新任となった。
(10)法政大学大学史資料委員会資料部会編『法政大学史資料集 第12集』(法政大学、一九八九(平成元))五六頁
(11)(10)に同じ。五八頁
(12)法政大学編『法政大学百年史』(法政大学、一九八〇(昭和五五))二三七〜二四〇頁
(13)(12)に同じ。四〇頁
(14)(6)に同じ。二九二頁
(15)法政大学新聞学会『法政大学新聞』第四六号(法政大学、一九三四(昭和九)年九月)
(16)(7)に同じ。二二五頁
(17)(6)に同じ。二九四頁
(18)(12)に同じ。二四五頁
(19)(7)に同じ。二三五〜二四九頁。
(20)法政大学社会学部学会 編『社会志林』59(4)(法政大学社会学部学会、二〇一三(平成二五))
(21)(1)に同じ。二一三〜二一四頁
(22)井本健作「井本健作自省録」十二月五日、(7)に所収。九五頁
(23)内田百閨@多田基宛書簡「昭和十年二月二十二日 葉書 多田基様」『新輯 内田百闡S集』(福武書店、一九八九(平成元))一九一頁
(24)(23)に同じ。
(25)(23)に同じ。一九二頁
(26)(23)に同じ。一九三頁
(27)(23)に同じ。一九四頁
(28)(22)に同じ。八八頁
(29)(22)に同じ。九三頁
(30)「森田草平日記」一九三四(昭和九)年九月一一日(7)に所収。二一二頁
(31)(15)に同じ。
(32)法政大学新聞学会『法政大学新聞』第五二号(法政大学、一九三五(昭和一〇)年九月)
(33)法政大学新聞学会『法政大学新聞』第五三号(法政大学、一九三五(昭和一〇)年五月)
(34)法政大学新聞学会『法政大学新聞』第五九号(法政大学、一九三五(昭和一〇)年十二月)
(35)竹内賀久治伝刊行会『竹内賀久治伝』(酒井書房、一九六〇(昭和三五))一三〇頁
(36)(2)に同じ。一六〜一七頁
(37)(12)に同じ。六四二頁
(38)(1)に同じ。八木正厚「教育熱心」五五一頁
(39)国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1159110)の画像(R10-C2-54)を加工して作成
(40)国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=740818)の画像(63-C8-5)を加工して作成
(41)国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=737270)の画像(C50-C3-48)を加工して作成
(42)「法政大学予科学生寮・寮祭風景」一九三九年 HOSEIミュージアム所蔵「法政大学史写真コレクション」資料番号 daigakushi-p-1976
(43)「法政大学法政寮」一九三四年 HOSEIミュージアム所蔵「法政大学史写真コレクション」資料番号 daigakushi-p-1535
(44)(43)の説明文。
(45)(6)に同じ。七五頁
(46)(1)に同じ。三〇三頁
(47)(1)に同じ。六一八頁
(48)(1)に同じ。四六一頁
(49)(1)に同じ。四六四頁
(50)朝鮮新聞社編『朝鮮統治の回顧と批判』(朝鮮新聞社、一九三六(昭和一一))八六頁
(51)(6)に同じ。四〇四頁
(52)(12)に同じ。年表 四五頁
(53)(1)に同じ。小西真津一「追想」二四六〜二六六頁
(54)国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=740818)の画像(63-C8-5)を加工して作成
(55)「法政大学満州学生寮」一九三七年 HOSEIミュージアム所蔵「法政大学史写真コレクション」資料番号 daigakushi-p-384
(56)(6)に同じ。五九二頁
(57)法政大学第一中学・高等学校編『法政一中・高五〇年史』(法政大学第一中学・高等学校、一九八七(昭和六二))一二二頁
(58)(57)に同じ。四六〜四七頁
(59)法政大学第一中学・高等学校編『人間の創造 法政一中・高 五〇年の歩み』(法政大学第一中学・高等学校、一九八六(昭和六一))一二四頁
(60)(1)に同じ。六八頁
(61)(57)に同じ。四八〜四九頁
(62)(59)に同じ。二六〜二七頁
(63)(59)に同じ。二二〜三三頁
(64)(59)に同じ。一二五頁
(65)(57)に同じ。五三頁
(66)(57)に同じ。五七〜五八頁
(67)中尾和人『うたい方のヒント』(音楽之友社、一九八一(昭和五六))
(68)(59)に同じ。一二八〜一二九頁
(69)創立三〇周年記念委員会編『武蔵野音楽大学創立三〇周年記念 三十年の歩み』(武蔵野音楽大学、一九五九(昭和三四))六〜七頁
(70)七十五年史編集委員会『独協学園七十五年史』(独協学園、一九五九(昭和三四))一五〇頁
(71)(70)に同じ。五四頁
(72)(1)に同じ。二三一頁
(73)(1)に同じ。小山松吉「守屋荒美雄君を追悼す」六〇一〜六〇三頁
(74)(1)に同じ。成毛基雄「守屋君を偲ぶ」一〇九〜一一〇頁
(75)(1)に同じ。高木友三郎「守屋先生の思い出」一五〇〜一五三頁
(76)(57)に同じ。五三頁
(77)(1)に同じ。曽根重雄「実業志望者への教訓」一五六〜一五七頁
(78)(1)に同じ。井本健作「向上会の思ひ出」二〇七〜二〇八頁
(79)(1)に同じ。為光直経「真実そのもの」三〇八〜三〇九頁
(80)(1)に同じ。野口保市郎「守屋荒美雄先生を憶ふ」一六二〜一六三頁
(81)(1)に同じ。二九九頁
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守屋荒美雄と法政大学
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