「情報教育」は各教科の基本にある

2000.6.5
黒川 孝広

出典:日本ドリコム 『ドリコムアイ』2000年1.2月号


思考力育成のための情報教育

 乗っていた船が突然遭難し、無人島に漂流したとする。あたりを見回すと人影が見えない。その時、何をするか。まず海を見て、船影を探す。しかし、砂浜から海を見たのでは遠くまでは見えない。そこで、小高い場所を探して登る。
 ところが、いくら遠くを眺めても船影は見えない。失望と体力の消耗からぐったりとする。そして、休める場所を探す。雨風の憂いのない、岩陰や洞窟や木陰などを探す。しかし、地面に直接寝るのでは体温が奪われ、寝心地も悪い。木の葉など敷くものを探し、枕となるものを探す。そして一休みする。
 しばらくして、空腹で目が覚める。食料を求めて付近を探索する。木の実、果物、きのこ、海藻、草など食用になるものを求める。手の届かない所であれば、石や木の枝など道具になるものを探す。毒のものを避けるため、臭いや色、感触などから判断していく。
 助けを求めるのも忘れない。通りかかる船から見て目印になるように、着ていた服を木に結んだり、やぐらなどを組み立てたり、木の枝を文字にしてくくりつけるなどする。木の枝を燃やしてのろしにもする。しかし、それでも助けは来ない。
 最低限の生活が一通り整うと、食料、水、寝床、道具とも次からはより快適に生活できるように工夫していく。
 ここに情報活用の基本がある。自分が知り得ないものを知ろうとする行為、知らせようとすることを他者に知らせる行為である。どうすれば望む「こと」や「もの」が入手できるか考え、工夫して入手する、どうすれば自分にある「こと」や「もの」を相手に伝えられるかを考え、工夫して表出する。これが情報活用の基本である。
 無人島は極端な例ではあるが、身近な例でもあてはまる。見知らぬ場所に転居した時、その土地の習慣を知ろうとする。ゴミの出し方を尋ねたり、近所の商店や病院の場所を尋ねたりなど。これがないと、新しい場所で生活できるか不安になる。時に、情報の不足は精神的な不安を増し、空想から妄想へと思いはめぐる。
 この情報を入手することは単に知識が増えることではない。情報を表出することは単に知識を連絡することではない。知りたい情報を入手すると、それについて考えていく。すると、自らに新しい考えが生じる。場合によっては新しい視点により新しい価値観が生じる。表出する場合も、自らの情報が相手に正しく伝わったか考える。そこで、自分の情報の内容、伝え方について考える。そして、情報や伝達についての考え方が変わる。
 これらのいわば「情報行動」は、知識の伝達のみならず、自らの考え方を増やしていくことにほかならない。
 「情報活用能力」という概念は臨時教育審議会第二次答申(昭和六一年四月)で初めて用いられた。その後、各機関でこの概念が検討され、「体系的な情報教育の実施に向けて」(平成九年十月)では、目標を「受け身から主体性重視」とし、コンピュータ利用を「操作中心から問題解決の道具へ」として規定し、「情報教育の目標」を次の三点と設定した。
  @情報活用の実践力
  課題や目的に応じて情報手段を適切に活用することを含めて、必要な情報を主体的に収集・判断・表現・処理・創造し、受け手の状況などを踏まえて発信・伝達できる能力
  A情報の科学的な理解
  情報活用の基礎となる情報手段の特性の理解と、情報を適切に扱ったり、自らの情報活用を評価・改善するための基礎的な理論や方法の理解
  B情報社会に参画する態度
  社会生活の中で情報や情報技術が果たしている役割や及ぼしている影響を理解し、情報モラルの必要性や情報に対する責任について考え、望ましい情報社会の創造に参画しようとする態度
 このうち、「@情報活用の実践力」については、受容(理解)と発信(表現)の能力と言い換えてもよい。ここには、理解と表現であり、学習者にとっては主体的な学習や体験的な学習をしていくことができる。しかし、「A情報の科学的な理解」となると、現実の情報の手段を理解することが中心となり、知識理解活動に偏りやすい。そして、「B情報社会に参画する態度」では、@Aを踏まえたもであり、@Aの指導の結果による応用である。また、現実の社会構造に参画する態度は、すべての教科にも通用するものであり、あえて情報教育の一義とするまでもない。
 すると、@の「情報活用の実践力」が実質的な情報教育の中心となる。そこで「情報活用能力」を次のように定義する。

情報活用能力
@情報受容能力
収集、選択、分析、受信、検索、加工、記憶化、蓄積化、計画、課題設定、機器の利用など
A情報発信能力
内容、方法、記録、記憶の再現、蓄積の利用、加工、機器の利用など

 この能力に入らないのが、興味・関心などの姿勢である。これらについては、能力として判定すると、到達の目標として設定され、興味が一つの技能としても捉えられてしまう。そこで、この興味・関心は能力ではないとする。
 「情報活用能力」には当然思考が入る。よって、「情報受容能力」は一部の「情報発信能力」を含むのであり、両者は厳密に区別できるものではない。あえて、受容面を強調するのが「情報受容能力」であり、発信面を強調するのが「情報発信能力」である。
 つまり、情報活用能力は特別にコンピュータなどの機器使用能力を言うのでなく、あらゆる情報を自分で選択し取り入れ、そしてそれをもとに考え、記憶していき、蓄積した記憶をもとにさまざまな記憶を組み合わせて表現するという行為の能力である。その結果、自分自身を表現することになる。この一連の自らの判断で自ら考えていくという思考力育成が情報教育なのである。
 以上により、情報教育とは

生徒自らが行動し、学習することで思考力を育成するという、自己教育力育成と問題解決能力育成の教育

であると定義できる。

情報機器利用教育の混乱

 次期の学習指導要領には高校の全教科、中学のほとんどの教科にコンピュータや情報通信ネットワークの活用により学習効果を高めるという記載がある。特に高校の「情報科」では、コンピュータなどの機器利用と情報の形態、態度育成を目標としている。この機器利用というのは、どのような意義と効果があり、それが今までの教育とどのような関係にあるのかを整理されないまま、今日に至っている。
 日常生活での情報収集媒体としては、新聞・雑誌とテレビ、そして友人や会社の同僚などのコミュニケーションによるものが圧倒的な中心であろう。ラジオやビデオなどそれに付加されるものが中心である。最近では、コンピュータと情報通信ネットワークの主なものであるインターネットが情報収集媒体となっているが、しかし、コンピュータの可搬性や通信方法や料金などの問題から中心の媒体とはなり得ない。電車の中では新聞や本から情報を収集する人は多いが、コンピュータで情報収集する人はまだ少ない。それは、新聞や雑誌などの印刷媒体に比べ、コンピュータの可搬性が低い点にある。ノートサイズのコンピュータが普及してきても、それには限界がある。むしろ、もっと小型の情報通信機器である携帯電話の方が普及や利用度は高い。
 その意味では、情報機器をコンピュータに限定すること自体に問題がある。テレビが普及する時に、学校でその利用方法について学習したであろうか。ビデオではどうであろうか。では、コンピュータや、ラジオ、CD、MD、DVD、写真機、テープレコーダーなどはどうであろうか。どの機器も情報受容と情報発信には効果的なものであるのに、学校では取り扱って来なかった。
 機器利用教育となると、その機器の利用がどのくらいできるかによっては、操作方法の理解が中心となってしまうことがある。そうなると、機器の知識・技能の伝達に終始してしまう。それでは、自己教育力や問題解決能力を育成するための思考力育成にはならない。
 また、機器の特性についての理解がないまま利用されてしまうことも懸念される。もし、機器利用教育をするなら、次の観点から指導計画をたてるべきである。

@情報の特性
情報機器がどのような情報を受容・発信するのに適しているか。
A効果性
情報機器が自分にとって有効な手段なのか。
B教育目標との関連
情報機器で思考力が育成できるのか
C社会での共通利用性
情報機器がどの程度社会に普及するか

 そして、コンピュータに限定して言えば、教育活動にどのように有効なのかを教科や校内指導の特性などを考慮して考えるべきである。
 コンピュータの特性を突き詰めていくと、計算と記憶に富んでいると言えよう。コンピュータで文書作成をするのは、その機能の一部しか使わず、紙と鉛筆の代わりとしているに過ぎない。ただ、再利用性が高いというだけなのである。紙と鉛筆よりは、付加価値が高いが、基本機能は同等である。
 コンピュータはあくまでも使う道具であり、目をはっきりしていないと、使う方法を見出せず、いつまでたってもコンピュータ操作習得に終始してしまう。空き時間や放課後、コンピュータに向かい合っている教員を見ていると、同情さえ起きてしまう。その教員を聞くと、「ワープロ専用機の方が早かった」「手書きの方が早かった」などと言う。使いこなすまではブラックボックスなのである。使いこなすとそれは便利な道具であり、その限界も見えてくる。コンピュータに夢を託すのはよいが、それでも、まだまだ発展途上の道具なのである。そして、道具としての利用までに限定しないと、夢や期待までも入れて考えてしまう。それが、本来の目標を逸してしまうことで、かえって教員や生徒に混乱を来してしまうことがある。
 コンピュータの価格が下がるにつれて、コンピュータが加速度的に家庭に入りつつある。それに伴い、コンピュータを利用する生徒も増えてきている。家庭で頻繁に利用している生徒と、全くコンピュータを利用していない生徒との機器利用能力の差は大きい。その差があれば、取り扱う内容も一通りではなくなる。初期では機器利用について操作方法を中心にした学習も、いずれはそれより高度な学習とならざるを得ない。また、家庭での利用がさまざまであれば、学習内容もさまざまになる。コンピュータを利用した教育は、基本となるコンピュータ機器利用能力によって学習計画を練り直すことになる。
 もう一つ、コンピュータの開発速度が問題となる。学校にコンピュータが導入されれば、しばらくはその機種を使用することになる。ところが、ソフトや言語など基本仕様の進歩は極めて急速で、昨年のコンピュータが今年になって使いにくい旧式となることもあり得るのである。事実、二世代前の言語で利用している学校もある。家庭や学校外で利用するコンピュータは最新式で、学校のが旧式であるのなら、生徒の興味や関心も薄らいでしまう。学校の予算が少なければ、ソフトのバージョンアップもなかなかできない。そのような現実の中で、どのような指導の工夫をしていくのか。
 また、備品の量と学校の評価の問題もある。学校にコンピュータがあることが学校の質(ランク)が決められてしまうことになりかねない。どの学校でも最近はコンピュータ教室について宣伝文句にしている。ソフトが大切な教育においてハードを重点的に宣伝するという本末転倒の出来事も起きかねない。

三、教科書比較

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│健康面・環境面での配慮はあるか │
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 コンピュータを使う環境の問題が人間工学の立場から指摘がされている。コンピュータから発生するノイズ、電波、音、画面のちらつき、画面の輝度、机の高さや椅子の高さ、空調などである。その影響により、ドライアイや体のだるさなどの不調を訴える人が多いという。
 ディスプレイや本体からの電磁波について、スウェーデンでは各団体が独自な基準を作成しているなど、海外では対策が盛んであるが、日本においてはあまりされていない。
 電磁波についてはまだ見えないものだけにその因果関係は明らかにされていないが、子どもの姿勢は明らかに不自然なものがある。教員でもコンピュータに向かったまま長時間同じ姿勢のまま作業している人がいる。どう考えても体にいいわけはない。子どもならなおさら、身体発達の観点からよいわけはない。
 人間工学の視点、健康への影響の一次的、二次的な問題をも十分に考慮すべきである。性急な導入に対してのさまざまな警鐘は単に新しい教育への反旗ではなく、教育の基礎・基本を重視するとで、不易と流行の部分をきちんと見分けた結果として批判である。情報教育ではこのことを十分に認識すべきである。
 また、環境面でも不都合がある。コンピュータによりペーパーレス社会が到達すると言われてきた。しかし、現実はコピーや印刷が増え、決してペーパーレスではなかった。紙だけではない。コンピュータの技術の進歩により新製品が増え、それに対応していくことで、大量な単位でコンピュータを入れ替えることになる。そのコンピュータは産業廃棄物としてゴミになるのである。本来環境面を考えるべきコンピュータ利用が、多くの環境問題を引き起こすことになる。このことも、情報化社会に伴うことを忘れてはならない。
 また、コンピュータや周辺機器の電気使用量も環境問題となる。以前に比べてコンピュータ本体の電気使用量は少なくなるよう設計されてきたが、コンピュータの絶対量が増えているので、電気使用量は当然増加する。最近、気がつくことは職員室のコンピュータの電源が一日中入ったままであることだ。電気使用も環境問題の一部であり、その使用についても、単に便利さの追求という面のみでなく、十分に教育上指導していく必要がある。

多対多への学習活動へ

 コンピュータは人間の生活を便利にするために開発された。事実、交通、電気、電話、水道、ガスなどさまざまな分野ではコンピュータによる制御や管理は欠かせない。無駄を省いて便利にしていく道具である。いわば、効率を求める思想がここにある。
 しかし、教育では、必ずしも効率を求めた指導がいいとは限らないのである。芸事の師匠が弟子に教える時、効率的な技法だけを教えるのではなく、考え方や生活態度も含めた、いわば文化を時間をかけて教えている。それは、教えて身に付くというよりも、学習者の意欲と努力で時間をかけて形成していくものである。
 情報教育では効率を求める機器利用が中心となっていて、非効率ではあるが教育的には重要な指導についてはふれていない。簡単な伝達ならメモや手紙で伝えることも効果的な場合がある。
 映画「幸せの黄色いハンカチ」も、今までの時代では携帯電話で連絡がついてしまう。夏目漱石の「こころ」も、先生から電子メールが届いて終わりとなる。それでは、列車の中ではやる気持ちを抑えて、手紙を読み続けることもなくなる。もちろん、電子メールの方が正確に届くこともある。いわば、効率的なものが効果的とは限らないのである。
 最近、生徒に課題として出したレポートを生徒同士に読み合うことにした。中にはワープロなどで丁寧に作成したレポートがあった。何人かに尋ねると、ワープロよりも手書き方が読みやすいという。手書きの方が字が大きく暖かみがあり、書いた人の気持ちが伝わるというのである。
 情報とは無機質な「もの」や「こと」だけでなく、考えや主観、価値も含む。相手の感情が手書きによって伝わることもあるのである。
 教育では、非効率的なじっくりと調べる学習も、いろいろな試行錯誤も達成感を得て、自らの考え方を増やすのに必要である。自己教育力の育成や、問題解決学習による育成は、非効率的な指導によって生まれる。そこには、人間と人間との非効率的でありながら、充実した交流があるのである。
 コンピュータ利用のすべてが悪なのではない。コンピュータ利用をしなくても教育はできる。ならば、情報教育を今までの教科構造の中から捉えることができよう。
 情報活用教育が個人を対象として行われるのであれば、個別指導が中心となる。しかし、学校において情報活用教育をするのであれば、学級という集団、あるいは学校という集団を活用しなければ、学校で指導する必然性が薄い。学校で指導する以上は、集団での中での教育をすべきである。一対一の指導から一対多、多対多の指導を組み合わせて、その中の一つに限定するのではなく、有機的に場合分けをして指導していくべきである。
 高度情報化社会になっていくほど、人と人とのコミュニケーションの質が問題になってくる。そのためにも、あえて機器を使用しないで学校という集団の場でコミュニケーションの機会を与え、その中で情報の受容と発信をしていくことで、自分自身を知り、他者を理解し、人と人とのつながりの社会を認識していくことも必要である。そのためにも、情報教育では、直接対面のコミュニケーションを大切にすべきである。

厳選された情報の場としての図書館

 インターネットにしてもいかにも便利な情報機関であるがごとき宣伝が日々テレビをにぎわす。もちろん、情報機関としてはとても便利なものではある。しかし、情報発信者が情報を発信しないと機能しないのがインターネットである。そのため、必要だと思って検索エンジンで調べたら、思いの外多くのホームページが検索され、それをどう調べていいかとまどうこともある。そして、そのページが実は全く必要でない情報だという場合もある。また、特定の分野について、特に歴史的な情報は少ない。また、電子テキストである以上、漢字の異体字や書写体などの文字情報は画像でないと読み込めないことがある。このような状態では、図書の方がまだ多くの情報を引き出すことができる。
 インターネットではだれでもが簡単にホームページを公開できるので、情報の信頼性が薄い。怪情報や誤情報なども多い。作為的に偏った情報により作成された資料もあり、そして子どもに有害な情報も多いのである。有効な部分もあれば、害もある。このことをきちんと認識させ、判断する能力を育成しないと、子どもに精神的なダメージを与える。またそのような状況では自己責任の意識を育成する必要もあるが、それは学校という場において各教科で育成するのが望ましく、インターネットで指導するものでもない。
 必要な情報を取り出すには技術が必要である。もちろんサーチャーを養成するのではない。むしろ、もっと基本的な情報検索の指導が必要である。それはインターネットなどを使わずとも図書館でできる。図書館でのリファレンスの作業が情報検索なのである。印刷物の量が多く、歴史もある日本では図書情報が有効であり、貴重である。図書は財産であり、文化である。図書館離れや読書離れが問題なっている現在だからこそ、図書館でのリファレンスの指導を多く取り入れて、自らが調べて、問題を解決する能力を育成しないと、いくらコンピュータで調べても、コンピュータで調べたという情報受信力の育成でしかない。問題解決能力の育成にならないのである。むしろ、情報はもっと多くの図書館の二次資料や三次資料、そして実地調査の一次資料を調べていくという外へ広がる情報検索の力を養うことが先決である。図書館での資料調査は思いもかけない所から必要な資料が発見できたりする。また、調べている資料ではないが、おもしろい資料に出会えたりする。検索は必要なものを必要なだけすぐに取り出すのではあるが、実はちょっとした検索の失敗からおもしろいことに出会うこともある。インターネットでは、その失敗は意外な結果になりやすい。しかし、学校の図書館ならあらかじめ図書は選んである。つまり、情報の質が保たれているのである。その中から資料を探すのは、実は容易な方法であると同時に、子どもたちに安心して調査の機会を与えることになる。図書館での練習を終えればいくらか情報の取り扱い方についてなれるので、その後でインターネットなどで調べることを学ぶのもよいであろう。

各教科の基本に情報教育がある

 以上のように考えると、情報教育の方法と内容は、今までの各教科や生活・進路指導の教育と何ら変わることはない。ただ、機器利用教育が追加されたことである。
 ならば、あえて情報教育をする必要は何か。インターネットから重要な情報を収集するためか。しかし、インターネットでは、個人による情報が多く、正しいとはいいがたいものもある。
 その点、学校図書館は教育の論理によって収集されていて、安全で教育活動ができる場である(1)。インターネットでは誹謗や中傷、心身的に有害なものもある。学校図書館の資料にはそれらのものを排除した子どものための情報資料室なのである。その資料室の活用が先決ではないか。効率的に知りたい情報を得るのも大切であるが、図書館で本の背表紙を眺めながら、「こんな本もあるのか」と手に取る楽しさも情報ではないだろうか。遠回りして偶然見つかる情報というもの、そのような価値を発見するにはどうすればよいか。それは、各教科のに学習や生活・進路での学習に基本があるのである。
 まず情報内容を理解し、その内容について自分なりに吟味していくこと、そして、吟味していく過程でさまざまな考え方をしていくこと、このことなくして情報は活用できない。いわば、視点を増やし、今までの自分の考え方がどうであったか、そして、どのように表現すれば自分の意見が伝わるかなど、今までの自分と違う視点を増やすこと、この基本的な活動が必要なのである。
 例えば、新聞を読む時、複数の新聞の記事を対照し、それぞれの記事の取り扱いを検討することが情報の取り扱いを知る効果的な方法である。それは、NIEの範囲ではあるが、新聞でなくとも、テレビの報道や、評論文、進路先の検討などいろいろなことでも扱える問題なのである。
 この諸問題の根元にあるのは、情報活用を経済の論理からではなく、教育の論理から考え直していくことが欠けている点である。それゆえ、昨今での「情報」「コンピュータ」「情報通信ネットワーク」の語によって振り回されている現状が解消できていない。
 生徒自らが自主的な活動をしていくこと、自らの価値観を育てていく活動をすること、そして豊かな表現活動をしていくこと(2)が、情報教育の中心となるのである。
 「自ら学び、自ら考える力」の育成手段としてコンピュータなどの情報通信技術利用が叫ばれたが、その目的を見失い、機器利用教育に徹してしまったのでは、本末転倒である。対面コミュニケーションに必要が問われている現在、機械の向こう側の人間との対話も大事であるが、目の前の人間との対話という教育活動の基本をしっかり踏まえないと、今まで蓄積された教育の「情報」を失い、無人島で「教育」を探し求めることになりかねない。


(1)黒川孝広「情報教育の諸問題」 http://www.parkcity.ne.jp/~kakukai/
(2)黒川孝広「表現不足が人間疎外を生む」『子ども文化フォーラム』3号(明治図書 一九九八年)


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