『源語梯』の諸本について

1999.2.4
黒川 孝広

一、はじめに

 『源語梯』については、中井竹山の「源語梯辨」により、江戸期の出版盗作問題として知られているが、その諸本についての研究は未だ見受けられない。本稿はその諸本について整理するものである。

二、『源語梯』について

 『源語梯』は、「源氏物語」の註釈辞書である。ことばを「いろは」順にし、それを虚詞人事、天地時候、人倫支体、生殖気形、服飾器財の五項目に分けて、語釈を施している。見出し語は一六四三語ある。見出し語に続いて註を割注形式で記されている。書名は、天明四年初版の「序」にある 源語のときがたく、わきまへがたきことを、たづねもとむるのかけはしなれば の「かけはし」によると思われる。
 この本は五井純禎(蘭洲)の『源語詁』を「いろは順」にし、語を増やすなど纂訂刊行したものであることが、中井竹山の「源語梯辨」に見える。池田亀鑑氏の『源氏物語事典』(1)によると、『源語詁』は徳島光慶図書館本(旧阿波国文庫)の写本が焼失してしまったという。現在知られているのは元関西大学の吉永登氏所蔵本だけである。吉永登氏蔵本は田中裕氏の「」(2)に記述あるが、内容については詳細はない。なお、『国書総目録』(3)、『古典籍総合目録』(4)に吉永登氏蔵本のことは記されていない。
 作者とされる五井純禎は、元禄十年(一六九七)四月八日に生れ、宝暦十二年(一七六二)三月十七日に六十六歳で没した。五井純禎は大坂、懐徳堂の儒学者である。名は純禎(としさだ)、字は子祥、通称は藤九郎、号は蘭洲などであった。父持軒は朱子学者である。五井純禎は契沖の没後に生まれながら、契沖を私淑した住友家の入江友俊から、寛永三年に契沖の石碑の刻文を依頼されている。この依頼が来るまで、五井純禎は契沖のことを詳しくは知らなかった。友俊に契沖のすばらしさを語り聞かされることにより、契沖のことを深く知るようになる。もちろん、以前より契沖のことは知っていたであろう。それは、父持軒が下河辺長流と交流があり、万葉集や古今集の教えを受け、また、持軒の祖父守香が節用集を刊行したことからも、推察できる。また、『古今通』の自序には、 この集を併せ考ふる事の侍りて、家に伝へうける定家卿の遺書・顕昭の注、栄雅の抄、契沖の余材抄をなどと見侍りし とあることから、五井純禎は和書に親しんでいたことがわかる。また、 学問なくては歌もよはくて力なし。式部のかくおもへれど、みずからの歌は時によりて、ほねほねしさをもよみ出せれば、見る所ありといふべし と歌に対してもなにかしらの思想を必要とすると述べているところからも儒学のみならず、和歌、和文に対する見識が伺える。
 『茗話』には、 近世西鶴らが作れる草子は、其のたくみ水滸にまされり」「何人のいひしか、定家卿は歌つくり、西行は歌よみとなり、よくいひかたどれり、定家卿は明の王李に類す、西行は唐の元白に類す」「意を得て、書を見ば、じやうるりくさざうしも人の益となるべきなり とあり、朱子学者とて勧善懲悪的に読みながらも、懐徳堂の精神である町人中心の思想が読みとれる。
 上田秋成は『胆大小心録』の中で、 段々世がかわって五井先生といふよい儒者じやあって、今の竹山・履軒はこのしたての禿じや。契沖をしんじて国学もやられた。続落くぼ物がたりといふ物をかかれて、味噌をつけられた事よ と五井純禎が契沖の影響を受けていることを述べている。なお、五井純禎が存命の時には契沖の『余材抄』は刊行されていないので、その影響があるとすれば、写本か稿本を参照したものと考えられる。八木毅氏「勢語通について」によると『古今通』にも『勢語通』にも、@契沖説の継承、A契沖説の敷衍、B契沖説への批判があるという。(5)
 「源語梯辨」を記した中井竹山は、享保十五年(一七三〇)五月十三日に生れ、享和四年(一八〇四)二月五日に七十五歳で没した。五井純禎と同じく、懐徳堂の儒学者である。名は積善、字は子慶、通称は善太、号は竹山、雪翁などであった。儒学者中井甃庵の長男であり、宮本又次氏によると、五十一歳の時、体重が二十四貫もあり、豪放であったという。(6) 若くして五井純禎に師事し、五井の教えを受け継ぎ、後に懐徳堂を中心になって盛り立てた。
 この中井竹山の「源語梯辨」は、かなり激高して書いているが、この事件に対して激高しているだけでなく、中井竹山自体が日頃より興奮ぎみである。中井竹山は五井純禎が荻生徂徠を批判した遺稿『非物編』を校正し、その後に自らも『非徴』(天明四年刊)で徂徠を批判している。その論調は激高であり、 おの徴の巻端の諸説、謬妄紙に溢れ、奇僻怪譎の見、実にここに勃卒たり。その大なる者は、蘭洲先生堂々の陣、既にその討を致す。今その余寇を蹙して、以て素穴を一掃すと云ふ と、意気軒昂である。この記述は「源語梯辨」執筆とほぼ同時期なので、中井竹山が本心から怒りを持っているのではなく、独特の文の調子と受け取った方がよいであろう。
 多治比郁夫氏によると、『源語詁』と『源語梯』を比較したのは、中井竹山と同じく懐徳堂にいた加藤景範であり、中井竹山ではないと指摘する。(7)

 先日は貴簡辱拝誦仕候。尊萱様愈御快御座候由欣喜仕候。源語梯一覧仕候処、五先生之説ヲ其マヽ書タル有、説略シタル有、或説ト書タルアリ、契沖其外他カ説ヲ姓名を挙ルアリ、一例ナラス、源語詁之詞ノ漏タルモアリテ、一向手ノ付カタキモノニ御座候。付言ノ何人之作ヲシラズノ語ハ、其マヽニシテ、先生源語詁之説ヲ多ク己説トシ、或説トシタルモアルト云事ヲ書入テモ可然歟。又思ニ、先生精緻之撰ニモ無之、畢竟ハ本業之余事ニ候ヘハ、其儘被指置候テモ可宜カト被存候。詁梯共返璧仕候。余期拝晤候。不具。
  五月六日  竹山尊兄                             景範

これによれば、天明五年に中井竹山から依頼され調査したことになる。そうなると、中井竹山の「辨」は、実際にはよく比較せず、加藤景範に調べさせ、それよって、五井純禎の影響があることを知って、この「源語梯辨」のように激高した文調となったものと思われる。
 懐徳堂については、一七二四(享保九)年に三星屋武右衛門、道明寺屋吉左右衛門、船橋屋四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池又四郎が尼崎町(現中央区今橋四丁目)に設立した。二年後に幕府官許となった。三宅石庵、中井甃庵が教授し、後に中井竹山、中井履軒が教授した。講義は書物を持参せずともよく、謝礼も紙一折・筆一対出よいと、町人の生活にあわせた規定であった。一九六九(明治二)年に学制改革により廃校となった。懐徳堂は、日本の物語や和歌などの講義は禁止されていたが、教授者は和歌や物語の注釈書を著し、それを門人に貸していたことが記録にある。講義はならぬが、貸し与えることは許されていたのである。ここに、懐徳堂独自の文化が醸成された基盤がある。

三、『源語詁』と『源語提要』

 吉永登氏は『源語梯』の原版である『源語詁』購入時のことを次のように述べている。(8)

 しかるに数年前はからずも同書目に書名だけでも未見の書としている源語提要が、手に入った時の喜びは格別であった。場所は終戦後の復興もはかばかしくない空堀通りの古本屋で、これも珍しい同じ蘭州(ママ)の源語詁などとともに買ったのであるから、しばらくは古本屋漁りの礼讃で人の迷惑も顧みなかったものである。

 なお、詳しい書誌については、「五井蘭州の源氏学」(9)に載せられているということだが、同雑誌は未見であり、詳しくはわからない。
 田中裕氏「源語提要・源語詁について」(10)によれば、『源語詁』は三冊本であるという。第一冊は天文塵時候居所宮室鬼神と虚詞の二部に分かれ、二十丁。第二冊は人倫支体草木禽獣虫魚と服食器財との二部に分かれ、二十四丁。第三冊は人事部で、「虚詞にかよへるおほし。あわせ見るべし」と注されていて、二十九丁である。各部はそれぞれ源氏物語の巻の順序に従って分類され、各巻の中ではまた、大体いろは順に分類されている。各巻の末に補遺が追加されているものも少なく、頭注・行間の書き入れ、付箋などもある。また、「注」として旧注を引き、特別の場合以外は名を挙げないが、河海抄・花鳥余情・弄花抄・細流抄・孟津抄・湖月抄などの諸注におよんでいる。「注」に対立しているのが、「契注」「契説」などと記されて、『源注拾遺』の説を引用していることが多い。書き入れの方には「目安」の説が入っている。諸注に五井純禎が自分の意見を加える時は、「愚案」と標記するのが普通である。
 『源語梯』はすべてをいろは順にしているので、配列は『源語詁』かなり違うことになる。また、丁数も七十三丁であり、『源語梯』の半分以下である。
 成立については、宝暦元年(一七五一)に娘「セツ」のために『伊勢物語』の注釈書『勢語通』を著したことから、この年以降となろう。蘭洲著の『万葉集詁』『古今通』を加藤景範が宝暦二年、宝暦四年に筆者していることから、宝暦四年以後、蘭洲の没年である宝暦十二年(一七六二)の間に成立したものと考えられる。懐徳堂では、和書の講読は一切禁止だったので『源語詁』は門人などが個人的に借用し筆写したものと考えられる。宝暦六年(一七五六)には五井純禎の『古今通』を懐徳堂に通う吉田盈枝が書写している。この吉田は備前屋吉兵衛である。この例からも、当時、数人が書写をしているのがわかり、『源語詁』も書写されたものが複数あるに違いない。特に、宝暦八年(一七五八)には町内の一般人の自由な聴講が開始され、詩文や医書の講読も始まった。この折りに、『源語提要』のことを耳にした一般人が『源語詁』を借用したとも考えられる。あるいは、門人が筆者したものが他者にまた筆者され、加筆されたものかもしれない。
 『源語提要』についての概略は吉永登氏の前出論文により次の通りであることがわかる。 全三冊、美濃版のやや小ぶりな形で半紙版よりは遥かに大きい。うすい灰水色の表紙で、左上に、白紙の題箋があつて「源語提要」(一、二、三)と書かれている。
 『源語提要』の凡例には、

一、諸注に、作者をほめはやして、様々説を付けたり、契沖か、源注拾遺に、そのことの非をあらわせり、たつね求めて見るへし

とあり、契沖の『源注拾遺』を見たことが載せられている。また、

一、ものかたりの中の詞をとりいたし、類をわかち、いろはのもしにてあつめて、注をくはへたり、(以下略)

とあり、契沖の影響によることから、『源語提要』と『源語詁』には内容に似たところがあると思われる。田中裕氏はこの二本を門人の写本とするが、吉永登氏は五井蘭洲の自筆本であると主張している。
 『源語提要』は三冊。第一冊は桐壷から蓬生までで、五四丁。第二冊は関屋から柏木までで、三九丁。第三冊は横笛から夢浮橋までで、二三丁である。この中には五井蘭洲の源氏観が表れていて『源語詁』成立の参考になりそうであるが、本稿では省略する。なお、『源語提要』の本文の抄出は『湖月抄』によっている。
 『源語詁』の丁数からみても、『源語梯』とはかなり隔たりがあるように思える。また、五井純禎の他の筆から判断しても、それほど多くの語を記載したものとも考えられない。丁数によると、『源語詁』よりもかなり多くの語を『源語梯』は収録しているとも考えられる。あるいは、五井純禎が他の本を参照して、『源語詁』を編纂したものと考えられないか。すると、『源語類聚抄』との共通点もありうることになる。

四、撰者説

 撰者説は中野幸一氏(11)の橘守部説が最初である。以前に撰者説は見あたらない。そこで、いくつかの資料をもとに、撰者と思われる人物を列挙する。

1、なかつかさ  天明四年版の「序」に記述のある「なかつかさ」である。しかし、この人物については、不明である。

2、浪華黄備園主人  「附言」の記述による。

 余方技(クスシ)ヲ業(ワザ)トスレバ

とあるので、医者である。書肆の請にまかせて校正したとあり、撰者としては確証に欠けるが、

 仮字差(カンナタガ)ヒ、詞ノ重出(チョウシュツ)、考(カウガヘ)ノイブカシキナド、ヒトワタリ刪正(サンセイ)セザルベシヤハ

と、かなり手を加えているのは事実である。この人物は会津八一氏蔵の『浪華人物誌』にも見受けられない。井上豊氏は、中井竹山の「辨」には「序」と「附言」と同一人物としているが、「なかつかさ」と「黄備園主人」とは文体からして別人である、としている。懐徳堂には多くの医師が聴講に訪れている。五井純禎も中井竹山も医者の仲間が多くあった。加藤景範にいたっては、父が医者であり、自分も売薬を業としていた。懐徳堂に出入りした人物かは不明だが、その縁故によるものは間違いないであろう。

3、関慶次郎  『享保以後大阪出版書籍目録』の記述による。「作者 関 慶次郎(城洲伏見)」とあることによる。この人物については不明である。
4、芸満園  『享保以後江戸出版書目』(12)では、次の通りである。

   天明四年辰九月    源語梯 小本三冊 芸満園著 版元 塩屋平助
                 売出し 須原屋茂兵衛
   墨付百七十八丁  「芸満園著」

とあるが、この人物については不明である。

5、橘守部周辺説  中野幸一氏によれば、(13) 守部はその上梓を予定して稿本まで作成したが、何らかの事情で出版には至らなかった。それを増補した形で出版してしまったのが『源語梯』であったと考えることはできないであろうか。とすれば『源語梯』の撰者は守部の周辺にいるはずである。 と説いている。橘守部は天明元年(一七八一)出生し、嘉永二年(一八四九)に没している。『源語梯』の成立が安永九年(一七八〇)以前であり、天明四年(一七八四)の『源語梯』刊行の年は橘守部は三歳なので、橘守部が稿本を作成して出版に至ることはない。橘守部の周辺となると、橘守部より少なくとも二十歳以上年上の者となる。
6、源義亮周辺説  源義亮は『源語類聚抄』の撰者であり、同書には「盤渓隠士白蓮院空阿源義亮良明撰」と記されている。現在の所、この人物の経歴は不明である。『源語類聚抄』と『源語梯』の類似点は中野幸一氏が指摘していて、成立には大きく関与しているものと考えられる。

 なお、撰者として除外されるのが、中井竹山と加藤景範(竹里)である。激高して、あえて「源語梯辨」を載せた中井竹山は、偽書を著す必要はない。一方、加藤景範は『万葉集詁』や『古今通』を筆写しているが、師弟ゆえに偽名で『源語梯』を刊行する必要もなく、また、加藤景範自身は『源語解』を著しており、『源語梯』を著する必要はなかったと思われるからである。

五、諸本

 諸本については、『国書総目録』では二種類散見される。それは、以下に示すとおり、天明四年と文政六年版である。
天明四版 国会・静嘉・宮書・京女大・京大・慶大・国学院・早大・東大・東北大狩野・阪大(二巻一冊)・北大・葵・大阪府・金沢市藤本・神宮・天理・無窮神習・陽明・米本・旧浅野・学書言志
文政六版 京大
刊年不明 静嘉(巻下欠、二冊)・宮城伊達・刈谷・豊橋・神宮(巻上一冊)(二冊)・鈴鹿・田中允
 『古典籍総合目録』でも、同様に二種類の諸本が見受けられる。
天明四版 国文研(一冊)・大阪女子大(三冊)・玉川大(上中下 一冊)・和歌山紀州藩(上中下 三冊)・弘前(三巻 一冊)(三巻 一冊)・秋月郷土館(三巻 三冊)・熱田菊田(中下存 二冊)
文政六版 国文研初雁(三冊)
 これによれば、二種類の刊本があることが分かる。しかし、これらは刊記をもとに記述されたものなので、その内容が異なっていることは、ここからは伺えない。この「天明四版」の中には、中井竹山が「源語梯辨」を所収した版が含まれていて、国会、早大、東北大はこの中井竹山の「源語梯辨」版であることが知られている。なお、一冊本が見受けられるが、一冊で刊行したのか、改装本なのかは不明である。こで二種の版本があることがわかる。
 以下、文献を参照して、『源語梯』の諸本を検討していく。

1、天明四年版(初版)  天明四年(一七八四)九月刊行。井上豊氏「源語梯について」(14)によれば、

安永十年、かのとのうしむつきついたちの日、淡路の国犬上川のほとりなる、なかつかさがしるす

という識語のついた「源語梯序」が最初にあり、次に「浪華黄備園主人識」という識語のついた「附言」があるという。八木毅氏「懐徳堂の和学書目並解説」(15)によれば、「なかつかさ」の識語の「淡路」は「近江」であると言う。この版には中井竹山の「辨」はついていない。
 池田亀鑑氏の『源氏物語事典』によれば、刊記は次の通り。
  天明四年甲辰九月発行
    京都書房 出雲寺文次郎
    同    吉田四郎右衛門
    同    風月庄左衛門
    同    斎藤庄兵衛
    江戸書坊 須原屋茂兵衛
    大阪書坊 大野木市兵衛
    同    渋川清右衛門
    同    高橋 平助
 大坂の出版の目録である、『享保以後大阪出版書籍目録』(16)での記述は次の通り。
   源語梯 三冊     本文丁数一百五十九丁
   作者 関 慶次郎(城洲伏見)
   板元 塩屋 平助(南久太郎町六丁目)
   出願 安永九年二月十四日
   許可 安永九年二月二十八日
板元の「塩屋平助」は刊記の高橋平助のことであり、「塩屋」は屋号である。坂本宗子氏の『享保以後版元別書籍目録』(17)高橋平助が版元をしていたのは、宝暦八年正月から天保五年十一月のことであり、大坂の南久太郎町六丁目、南久宝寺町五丁目、博労町に店を構えていた。同じく名を連ねている渋川清右衛門は柏原屋清右衛門のことであり、享保九年八月から嘉永五年十一月の間に開業していて、多くの種類の書籍を出版した大店である。店は大坂順慶町五丁目にあった。江戸の須原屋茂兵衛は、享保十二年三月から文化十二年三月にかけて開業していた。また、京都の出雲寺文次郎(文治郎)は安永四年十二月から文化十年十月に、吉田四郎右衛門は享保十三年二月から文化十二年十二月に、風月庄左衛門は享保十二年九月から文化十一年十二月にかけて開業していた。これほど多くの地域で刊行されたのも、当時、「源氏物語」の辞書の需要があったからであろう。
 『享保以後大阪出版書籍目録』には、出願を「安永九年二月十四日」としているので、安永九(一七八〇)年にはすでに『源語梯』は成立していたものと考えられる。  一方、江戸の出版目録である『享保以後江戸出版書目』の記述は次の通り。
   天明四年辰九月    源語梯 小本三冊 芸満園著 版元 塩屋平助
                 売出し 須原屋茂兵衛    墨付百七十八丁
 江戸での記述を総丁数と考え大阪の丁数と比較すると、「序」と「附言」が十九丁となる。「附言」が三丁であるから、「序」は十六丁となる。この丁数は「序」としてみればかなり多いものであり、大阪と江戸では多少版が異なっていると考えられる。
 先の加藤景範の書簡にあるように、中井竹山がこのことに気づいたのは、天明五年五月より前であるが、この天明四年九月の刊行を考えれば、すでに刊行されたものを中井竹山が見たことになる。よって、次の版よりも前に初版が出ていたことになる。

2、天明五年中井竹山辨版  この版には、中井竹山の「源語梯辨」四丁があり、その次に「附言」三丁、「凡例」一丁がある。「源語梯辨」には、
   天明乙巳之夏
      竹山居士識
とあり、天明五年(一七八五)に「源語梯辨」を記したことがわかる。
 一方、刊記は次の通り。
  天明四年甲辰九月発行
    京師書坊 出雲寺文次郎
    同    吉田 四郎右衛門
    同    風月 庄左衛門
    同    粕淵 利兵衛
    江戸書坊 須原 茂兵衛
    大阪書坊
         渋川 清右衛門
         高橋 平助
 天明四年に刊行されていながら、天明五年の中井竹山の「源語梯辨」があることはおかしい。このことから、中井竹山の「源語梯辨」が掲載されている版は、天明五年以後に刊行されたことがわかる。だが、中井竹山の「源語梯辨」により、五井純禎の著であることに対しては公儀に出ることなく、示談ですませ、「源語梯辨」を載せて刊行することで和解しているので、版元としても素速く刊行したと思われる。中井竹山の激高や、地位故に、早急に刊行したなら、天明五年内に刊行されたと考えてよかろう。
 『享保以後大阪出版書籍目録』、『享保以後江戸出版書目』にはこの版の記述がない。刊記を天明四年版を「天明四年甲辰九月発行」としたままなのは、本文(序文を含む)を増補したなら、再度出版の出願を請わなくてはならず面倒となる。(加藤景範の『国雅管窺』は序文を二丁追加するのに享和二年に再度出版を出願している。)その為、刊年を変えず売り出しの一部を変えて、出版したものと考えられる。それゆえ、多くの書誌では刊記のみ見て天明四年刊行としたものである。 なお、「源語梯辨」によれば、「序ト附言トヲ去リ」とあるが、「附言」は残されたままである。

3、文政六年版  「文政六年九月 浪華書林加賀屋善蔵梓」の刊記がある。他の売り出しなどについては未見により不明。これには、「天明四年甲辰九月発行」の刊記も残されている。
 『享保以後大阪出版書籍目録』、『享保以後江戸出版書目』にはこの版の記述がない。「天明四年甲辰九月発行」の刊記を残して刊行したのは、再度出版の出願をする労を省くためと考えられる。『享保以後大阪出版書籍目録』では、「再板発行申出」「新板発行申出」「改題発行申出」などの記述が散見される。加賀屋善蔵(吉田善蔵)に版元が移ると、出版出願の必要が出るので、その煩雑を避け、天明四年の刊記を残して増刷と同じように刊行したものと考えられる。加賀屋善蔵が版元をしていたのは、天明七年十一月から明治六年十二月の間であり、大坂北久宝寺町五丁目と北久太郎町五丁目、浄覚町に店を構えていた。天明四年版の高橋平助とは近い位置に店を構えていたのであるから、いくつかの版は譲り受けていたものと考えられる。

以上から、『源語梯』には少なくとも三種類の諸本がある。いままでの諸研究で明示されている天明四年版についても、中井竹山の「源語梯辨」があるかないかを調査することで、天明五年中井竹山辨版であることもある。ただし、内容に関しては、この諸本がどのように校異があるかは未調査であるので、今後の研究を待ちたい。

六、各文献での表記

 以上の諸本の整理から、各書誌での記述を検討する。
1、『国書解題』には、
   『源語梯』     此の書は五井純禎の『源語詁』を其のまヽ印行せるを
とあるが、実際には通していろは順にし、語を加えるなど纂訂しているので、「其のまヽ」ということはあり得ない。また、同書には    『源語詁』 写本四巻 とあるが、どこの所蔵か不明である。唯一の伝本とされていた徳島光慶図書館本(阿波国文庫本)も吉永登氏蔵本も三巻であるので、別系統か、あるいは誤記の可能性も考えられる。
2、『群書一覧』には、
   『源語詁』写本四巻
とあるが、どこの所蔵か不明である。
3、藤田徳太郎氏『源氏物語研究書目要覧』(18)には、
   『源語詁』三巻 四巻本もあり。
とあるが、四巻本がどこの所蔵か不明である。
4、重松信弘氏『源氏物語研究史』には、
   天明四年の刊本は、中井竹山が源語辨なる一文を附してその次第を叙べ
とあるが、これは、天明五年中井竹山辨版のことである。
5、中野幸一氏「ある源氏語注書の出版騒動」(19)には
   天明四年版の『源語梯』の冒頭には、五井純禎の門人中井竹山の異例とも思える「源語梯弁」なる一文を載せている
とあるが、これは、天明五年中井竹山辨版のことである。

七、付記

本稿には、早稲田大学図書館蔵本により調査した。以下に書誌情報を記す。
『源語梯』(げんごてい)
配架番号 へ一二 一四一五 一〜三
著者 不明(五井純禎(蘭洲)の『源語詁』を纂訂刊行したもの)
刊年 天明五年(一七八五)夏以後刊行の再版
種類 刊本
巻数 上中下の三巻、計三冊
大きさ 小型本、縦十一・一センチ、横十五・四センチ
装幀 楮紙、袋綴、四つ目綴(糸は近年取り替えられたもの)
表紙 錆浅葱色(薄い水色)、布目模様紙
丁数 墨付、上巻 六八丁、中巻 六四丁、下巻 四九丁、計一八一丁
   上巻 源語梯辨 竹山居士識 四丁
      附言 浪華黄備園主人識 三丁
      凡例 居士再識 一丁
      源語梯上 自以/至加 六丁
   中巻 源語梯中 自與/至天 六四丁
   下巻 源語梯下 自安/至寸 四九丁
柱  下に罫、表丁の中ほどに○を記し、その中に見出しカナを入れる
題箋 各巻の表紙左上に墨一重罫
   上巻 『源語梯 自以至加 上』
   中巻 『源語梯 自与至天 上』
   下巻 『源語梯 自安至寸 上』
印記 各巻とも、
   見返し右上に配下番号の朱印、
   見返し左下に「水徴氏暴書印」の朱長方印
   一丁表右上に「披荘珍<見元>」の逆文字朱方印
   一丁表左上に「早稲田大学図書」の朱方印
   一丁表右下に「枩岡印」の朱長方印
   最終丁裏に「□源楼印」の朱方印
翻刻 菅原敬三, 斎木泰孝『翻刻平安文学資料稿』第4巻(広島平安文学研究会 一九六九年)
 また、多くの懐徳堂に関する文献によったが、文献一覧は割愛する。

(1999年2月24日提出)


(1) 池田亀鑑編『源氏物語事典』(東京堂出版 一九八七年)
(2) 田中裕「源語提要・源語詁について」大阪大学国文学研究室『語文』第十集(文進堂 一九五四年)
(3) 国書研究室『増訂版 国書総目録』(岩波書店 一九六五年)
(4) 国文学研究資料館『古典籍総合目録』(岩波書店 一九九〇年)
(5) 八木毅「勢語通について」大阪大学国文学研究室『語文』第十集(文進堂 一九五四年)
(6) 宮本又次『町人社会の学芸と懐徳堂』(文献出版 一九八二年)
(7) 多治比郁夫「加藤景範年譜」『大阪府立図書館紀要』8(大阪府立図書館 一九七二年)
(8) 吉永登「五井蘭州著源語提要の凡例」『関西大学文学論集』第四巻第四号(関西大学文学会 一九五五年)」
(9) 吉永登「五井蘭州の源氏学」『関西大学学報』(関西大学 一九四八年)
(10) 田中裕「源語提要・源語詁について」大阪大学国文学研究室『語文』第十集(文進堂 一九五四年)
(11) 中野幸一「ある源氏語注書の出版騒動」『武蔵野文学』四五号(武蔵野書院 一九九七年)
(12) 朝倉治彦・大和博之『享保以後江戸出版書目』(臨川書店 一九九三年)
(13) 中野幸一「ある源氏語注書の出版騒動」『武蔵野文学』四五号(武蔵野書院 一九九七年)
(14) 井上豊「源語梯について」『典籍』八、九(典籍同好会 一九五三年)
(15) 八木毅「懐徳堂の和学書目並解説」大阪大学国文学研究室『語文』第十集(文進堂 一九五四年)
(16) 大阪図書出版業組合『享保以後大阪出版書籍目録』(大阪図書出版業組合 一九三六年)
(17) 坂本宗子『享保以後版元別書籍目録』(清文堂 一九八二年)
(18) 藤田徳太郎『源氏物語研究書目要覧』(六文館 一九三二年)
(19) 中野幸一「ある源氏語注書の出版騒動」『武蔵野文学』四五号(武蔵野書院 一九九七年)


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