blue 鴛鴦呼蝉庵日乗
2004.06.07  冷房

 街行く人が、暑いから涼しげな服装か思うと、そうでもないようです。どうしてかと思っていましたが、土曜日に学会に行ったときにわかったのですが、電車の冷房が効きすぎるのですね。あれではかなり寒いはずです。
  それは、電車に限らずどこでもありそうです。今日、職場でも湿気の多さから冷房が入りましたが、暑がりの人に合わせるため、かなり冷えてしまいます。それでも、25度まで上げたのですが、冷気がちょうど降りるところに座っているため、膝から下が冷えてしまいます。ついに、しばらく封印していた膝掛けを出しました。今季初です。冷房の季節になると、膝掛けが必要となります。膝が冷えると、足首まで連鎖的に冷えてしまい、その結果、夜寝るときに足がだるくなって、寝付けらりなくなります。その上、足がだるいから布団が出してしまい、その結果風邪をひくということになります。
  まさに悪循環で、暑がりではあるのですが、冷房の冷えはもともと嫌いで、適度な涼しさを求めてやみません。
  ただ、自分の部屋となると、別で、パソコンの部屋はパソコンの熱でかなりの温度になります。そして、北向きの部屋なのですが、なぜが熱が籠もるのです。それで、窓からの熱を遮断するために、窓には防熱材を貼っていますが、それでも熱は入ってきますね。屋根とか床から。それで暑さはありますが、まだエアコンを入れるのは我慢しています。もう少し暑くなったら、入れるとは思いますが。
  でも、窓を開けると、この湿気、本が傷むので、結局窓は閉め切ったままとなります。乾燥機を入れていないので、いずれ乾燥機を入れることになるかもしれません。なかなか住みにくいことは確かですか、それでも四季があることは、いいことなので、多少は我慢して、この四季の移り変わりを感じていたいと思います。

 ことばを言葉で理解していく限り、言葉は抽象的な思考のチャンスにしかなりません。ある言葉、普通名詞が自分だけのものになるとき、それはその名詞は固有名詞と同じような、個性のある言葉になります。詩を読むとき、その言葉を読むというよりは、その詩に世界を与えることが読むことだと思います。恋愛の詩や、惜別の詩、そういう詩の世界を分類しても、それは抽象的な籠にしまっていくことで、それ自体は意味がないのかもしれません。その詩が自分にとってどういう位置になるか、詩という存在が認められるか。
  詩を読むことは、その詩に個性を与えることで、個性を与えるということは、その読むひとの個性を見いだすことにほかならないのです。詩を読むこと、そしてその詩に個性を与えることは、つまり自分自身の個性を認めていくことなのです。だれにでもない自分だけのかけがえのない言葉、その言葉を受け取る、それは受け取るのではなくて、その言葉に命を吹き込むのであって、詩を読むことは、詩から見いだす、詩から読むのではなく、詩の向こうにある自分の本当の像を見いだすこと、自分とは何かを見ていくことにほかならないのでしょう。
  短歌と同じく、詩も自分の心を映す鏡なのです。

 かっこいいとは何でしょうか。かっこいいとは、自分とは違う世界の理想として美であって、かっこいいという概念自体が、実は美しさなのかもしれません。

 渡辺春美先生から著書をいただきました。『戦後古典教育論の研究』。

 大平先生からお葉書。「トロイ」は面白そうです。

 読書の可能性について、先週の金曜日、土曜日、そして今日と、いろいろ意見を聞きました。なんとなく、自分の考えている構想が仮説からだんだん正しいという考えになりつつあります。意見集約の時期です。

 今日はいろいろいやなことばかりで、全く面倒でしたが、睡魔ばかりで、なかなかはかどりません。よくないことではありますが。でも、あきらめがついたというか、どうでもいいという気持ちにもなってます。自分一人がんばっても、そう大したことではないのですからね。

 3:30就寝、7:05起床、3:35睡眠。
  朝食、ごはん、納豆。昼食、おにぎり2個、みそ汁。夕食、ごはん、みそ汁、冷や奴、サラダ。夜食、カスピ海ヨーグルト。

 
前へ 目次 次へ
かくかい Copyright 黒川孝広 © 2004,Kurokawa Takahiro All rights reserved. かくかい