鴛鴦呼蝉庵日乗 2003
  2003.02.17 無責任

 責任を果たさないという無責任があって、それを追求されても、責任を取ろうという意識は出ません。なぜか。無責任という台詞には、無責任を追求する姿勢と、そして、無責任という自体を認識してしまうという事実。つまり、無責任を認めている姿勢とが両立しています。それが両方感じられるからこそ、無責任という追求が実は、追求というよりも、責任のがれという意識のかなたにある、いわば依存という意識をうかがうことができます。それは突き放すのではなくて、責任というものを追求すると、はたして追求できるものかという疑問なのです。責任を取るといって離れるのと、責任を取るから最後までやるというのと、どちらも責任という意味が込められています。責任というのが、事実や権力や力関係でなくて、感情だとしたら。そうしたら、責任は解決できるのではないでしょうか。無責任というのを、「私の思うようにしてちょうだい」。責任を取るというのが、「もっとしっかり私とかかわって」。という感情に置き換えることもできそうです。
 それは、責任という無形文化財を保持する、いわば人間国宝的な存在としてしかあり得ないからです。無形文化財の「責任」ということばは日本人特有の所在を明らかにすることばで、実は、「責任」という名のもとに、所在をあいまいしているのです。このことは、実は慎重に議論しなくてはいけないのですが、実はあいまいなゆえに、感情として認識するがゆえに、大岡裁きのように斟酌で終わる世界でもあります。なぜか。それは、責任という言葉には、相手への期待とともに、自分の心の中の落ち着きどころというのがあるのではないでしょうか。自分の意識を落ち着いていくための無責任。それは、いわば、オアシスとして、追求の余地を残してくれてありがとうという感謝の意味もある侮蔑的な、関心なのだと思います。

 話している時に、一番注意するのが、洗脳です。相手に洗脳させてしまうことこそ、怖いことはありません。だから、話すことには慎重にならざるをえない。本当のことを言わないといわれるゆえんがここにあります。議論、話し合いをしたいのに、議論にならないとき、説明に終わる時は充実がありません。言い放すことは、気持ちいいのことではなく、ただ、言い終わったという事実しかありません。自分も高めていく、相手も高まっていく、議論が進化するそういう相手を選んで議論したいというのが、昔からの考えでしたが、でも、相手はどんな人でも、自分を高めていくことができます。議論は必要です。議論によってこそ、高い次元へ考えをもっていくことができる。今までの自分の領域で話していたのでは進歩はありません。常に乗り越えて、乗り越えられてそして成長していくのでしょう。

 潮時という言葉があります。私の場合、その潮時がいつか、わかってしまいました。また、どこに私の居場所があるかも。居場所といおうか、終焉の地と言うべきか。ただ、カウントダウンはまだまだです。その時期が来るまで、まずは一つ一つの報告書作業から始まります。

 自分の心を隠すようになったのはいつからか。そう、子どもの時からですが、なぜなのか。自分の心を読まれることを極端に嫌うのはなぜか。単純で明快で、だれにでも読まれるのに。そこに深淵があったということを気づくには遅かったようです。深夜になるといろいろ考えが出てきて、したいことを始める。その癖はなぜか。きっと、自分ではまだあいまいにしていることが言葉として存在しないからでしょう。いつになったら本当のことが言えるのか。それは、いつか。遠い先の話です。それを繰り返して人は、人との関わりを変えていきます。いつになった、という気持ちはいつも心の底に。そして、いつか。笑顔で語るときが来れば。先の先。まだまだ先のことです。逡巡する心と、痛みと、そして偽善と。果てしない、自己満足と自意識過剰と。自己弁解と自己保身と。そして超えることのできない自己の意識と。あとは自分との対峙、挑戦、超克、相克です。あと少しです。


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