2003.01.03 おせち
 おせち料理は、あらかじめ年末に作り置きします。そして、それを正月に食べる。正月の調理の手間を省くのみならず、野菜など栄養バランスを考えると、いい方法だと思います。煮物が多くなりますか、私の場合は、煮汁につけておかず、引き上げて保存します。そして、食べるときに煮直す。これが一番おいしくいただくコツだと考えています。もっとも、自分で調理する分は少なめで、多くは買い求めたものです。食についてはおいしくいただくのが第一と思います。たまには、簡略して、簡素な食事も多いですが、正月ぐらい、あるいはたまにはいい食事と考えています。今回も、丹波の黒豆など選りすぐりのものを用意しました。雑煮の出汁も日高昆布など、少々奮発しましたが、その甲斐あって、さすが今年の雑煮の出汁は美味です。うどんのつゆにしても、おいしい。汁だけでもいいと思うぐらいいい味でした。
 今日は寒かったので、外出せず、たまっていたビデオやDVDを鑑賞。しかし、全て鑑賞できず、DVD残り4枚ほど。またの機会に。それで、運動しないので、あまりおなかがすかないので、一日二食。
 今回のおせちがなかなかいいできなのは、味はもちろんです。そしてその上に器がよかったのです。今までのポリウレタン樹脂の上に漆塗りのものでなくて、ちゃんとした木地に漆を7回塗り重ねた会津塗りを買いました。さすがに高額でしたが、スーパーの安売りとは違った落ち着いて色と艶ですし、何しろ耐久性がいいのです。高温や低温にも耐えられます。ただ、感想と、絹製品で擦らないこと、それだけです。湿度があればあるほど漆は定着しますし、色合いが年々変わっていきます。それも楽しみで、しっかりしたものを買いました。そのせいか、食材を入れても、ちゃんと保存できるのです。いい買い物でした。
 機能的な食事であるおせちも少なくなるのでしょう。手間を考えれば、大変です。作ってあるものを買えばいいのですが、煮物は自分で作った方がおいしいので、多少の準備だけはします。あとは、作ってあるものでまかなう。それでいいと思います。正月の忙しさを考えれば、手間は少なめにして、そして品数も少なめでいいと思います。今回は酢の物をなくしました。いつでも食すことができるものはいいのです。正月気分を味わうものだけでいいのです。伝統をそのまま守のでなくて、伝統に工夫を加えていくといいでしょう。昔と違って冷蔵庫や冷凍庫も普及しています。それゆえ、保存食としてのおせちでなくて、正月を味わうおせちでいいのです。
 決して、よそからのもらいものではない、自分だけのおせち、それが正月に似合うものです。だから、自分で作る余地も残しておくのがいいので、おせちのおすそわけは、いいようで、実は困りものなのです。その食卓にあうおせち、それぞれがばらばらのまま、そのままで存続していくこと、それが伝統なのです。

 テレビを流していたら、昔のアイドルのファン、いわば追っかけが、昔のファンへの思い入れについて語る番組があって、昔に入手した写真などを公開していました。中には、アイドル自信がいつの間にか放出されてしまったのか、中学生時代のプライベートの写真もあって、ファンや追っかけというのは、いわば、情報収集能力の優れた人々であるということが言えそうです。
 しかし、ネットで公開されると、あらゆる方法で調べようとします。すると、正しい情報も正しくない情報も飛び交います。中には、ある特定の人物に対して、マークされることもあるでしょう。
 すると奇妙なことが起こります。ストーカーというのが、実物に対して執拗に、相手の感情を無視して追っかける行為であるとするならば、ネットで、調べること自体もその執拗な行動の補助となることがあります。ある対象の人物が好むと好まざるに関わらず、ネットのどこかで、無断で情報が公開されると、その情報が一次的にも、二次的に広がります。そしてそれがその人物を作り上げる。ネットで自主的に公開されたものならいいものの、自主的でないものを取り巻くと、それは困ることです。
 メールでも他人を語っていることがあります。犯罪と同じ事です。そのような犯罪まがい物は、ウィルスメールで増幅されます。すると、ネットの社会は、あまり重要視しないほうがいいのかもしれません。重要な情報と需要でない情報とが混在する中、大切なのは必要な自分にとっていい情報を得ること、見抜くことです。それを情報処理能力として定義できると思います。

 ことばは誤解も生じます。だから、ことばで説明しますが、誤解も重なると説明する時間が無駄になります。その場合は、誤解した側と決別することになります。誤解を解くことが人間的に明るいことなのですが、誤解とは理性でなく、感情の場合が多いので、ある程度の処置はしても、心底の理解は求めない方がいいでしょう。決別してその分の時間を自分に使う方がいいのかもしれません。そう考えるとコミュニケーションの否定ととられますが、「みんな仲良く」ということがすでに幻想なのです。それぞれは違います。その違いを尊重して、自分は自分の判断をすること、それが自立と共生だと思います。

 心的外傷(psychic trauma)という概念があります。出来事によって、あるいは、人との関係によって、実際のショックまたは自分が思いこんで心がひどく傷ついた状態です。そこから見えないので、判断が難しく、人によって異なる症状を示します。長期間にわたり影響してしまうのです。「キレる」ことが心的外傷が原因ですが、心的外傷には、心の丈夫さに比例します。心の丈夫さは、子供の時に育てるものです。それは人との関わりで育ちます。人との関わりが少ないと育ちも少なくなります。心の丈夫さを作ること、それがコミュニケーションの目的ではないでしょうか。心の強さとも言うべきでしょうか。心の弱さをもったまま、それを肯定してしまうと、そのままトラウマになります。だから、心を育てます。同情するより、正しい方向へ導く、ある人はそれを男性的といい、女性は同情してほしいという結論を出していましたが、その男女差の中でも、共通するものがあるでしょう。それは心の丈夫さです。辛いことがあるから、丈夫になります。そのためには時間が必要です。時間と共に心を丈夫にしていくのです。

 すべては時間が解決します。時間は人に優しいのです。楽しいことも辛いことも悲しいことも全て忘れさせてくれるからです。

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